高台寺方丈・高台寺見どころ

高台寺方丈(大方丈)

●高台寺方丈(大方丈)は1912年(大正元年)に再建されました。高台寺方丈はかつて桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見城の建物として建て、1592年(天正20年)から1593年(文禄2年)の文禄の役(ぶんろくのえき)後に高台寺に移されたと言われています。内部には狩野派の絵師・狩野永徳(かのうえいとく)、大和絵の絵師・土佐光信(とさみつのぶ)らの襖絵で豪華に彩られ、豊臣秀吉が諸大名を集めて祝宴を開いたとも言われています。その後火災で焼失しました。高台寺は江戸時代後期の寛政年間(1789年~1801年)・幕末(江戸時代末期)に火災に見舞われています。高台寺方丈には本尊・釈迦如来坐像(宝冠釈迦)が安置されています。なお小方丈が再建される予定です。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、五奉行などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
●高台寺方丈(大方丈)は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
高台寺見どころ

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