高台寺傘亭(安閑窟)・高台寺見どころ(修学旅行)

高台寺傘亭

●高台寺傘亭(安閑窟)は1936年(昭和11年)4月20日に国の重要文化財に指定されました。
●高台寺傘亭(安閑窟(あんかんくつ))は桃山時代(1573年~1614年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築城した伏見城(ふしみじょう)に造営され、その後高台寺に移されたと言われています。高台寺傘亭は草堂(そうどう)・高堂(こうどう・学問所)とも言われていました。なお高台寺傘亭は屋根裏の竹垂木(たるき)が傘の骨に似ていることから傘亭と言われています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●高台寺傘亭(安閑窟)は千利休好みとも言われています。ただ千利休は1591年(天正19年)に亡くなり、伏見城の前身の隠居屋敷は1592年(天正20年)に造営が開始され、指月伏見城は1594年(文禄3年)から本格的に築城が開始され、木幡山伏見城は1596年(文禄5年)から築城が開始されました。
千利休は室町時代後期の1522年(大永2年)に田中与兵衛(たなかよひょうえ)と月岑妙珎(げっしん)の子として和泉国堺に生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳(きたむきどうちん)に師事し、その後茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)にいずれも千利休とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに織田信長の茶頭(さどう)になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人(茶湯者)としての地位を確立し、1587年(天正15年)に豊臣秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに千利休は豊臣秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪れた際、豊臣秀長(とよとみひでつぐ)から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然豊臣秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられ、その首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)されました。なお千利休は草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、簡素・清浄なわび茶(草庵の茶)を完成させました。
高台寺見どころ

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