高台寺表門・高台寺見どころ(修学旅行)

高台寺表門

●高台寺表門は1907年(明治40年)8月28日に国の重要文化財に指定されました。
●高台寺表門は桃山時代(1573年~1614年)に肥後熊本藩初代藩主・加藤清正(かとうきよまさ)が伏見城に建て、伏見城から移されたとも言われています。
加藤清正は戦国時代(室町時代後期)の1562年(永禄5年)7月25日に刀鍛冶・加藤清忠(かとうきよただ)と鍛冶屋清兵衛の娘・伊都の子として生まれました。父・加藤清忠が3歳の時に亡くなり、母・伊都が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の生母・仲(なか・大政所)と従姉妹だったことから1573年(天正元年)に近江長浜城城主・豊臣秀吉の小姓として仕えました。その後近江の守護大名・佐々木氏の一族である山崎片家(やまざきかたいえ)の娘を正室にしました。豊臣秀吉の直轄領の代官を務め、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長(おだのぶなが)に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こると豊臣秀吉に従って山崎の戦い(やまざきのたたかい)に参加しました。翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で敵将・山路正国(やまじまさくに)を討ち取って武功を挙げ、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に数えられ、3千石の所領を与えられました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が関白に就任すると従五位下・主計頭に叙任されました。1586年(天正14年)からは九州平定に参加し、肥後国領主・佐々成政(さっさなりまさ)が改易されると肥後北半国19万5千石を与えられ、熊本城を改修しました。1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に参加したが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると帰国しました。その後江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で徳川方(東軍)に参加し、西軍の小西行長(こにしゆきなが)の旧領・肥後南半を与えられ、52万石の大名になりました。1603年(慶長8年)に豊臣姓を下賜され、1605年(慶長10年)に従五位上・侍従兼肥後守に叙任されました。1611年(慶長16年)3月に豊臣秀頼(とよとみひでより)と徳川家康の会見を斡旋しました。なお加藤清正は1611年(慶長16年)8月2日に亡くなりました。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●高台寺表門は三間薬医門(やくいもん)で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
高台寺見どころ

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