高台寺鬼瓦席・高台寺見どころ

高台寺鬼瓦席

●高台寺鬼瓦席は京都の豪商・灰屋紹益(はいやじょうえき)と島原の名妓で、妻になった2代目・吉野太夫(よしのたゆう)を偲んで建てられたと言われています。高台寺鬼瓦席は1908年(明治41年)に古美術商・土橋嘉兵衛 (つちはしかへえ) が譲り受け、灰屋紹益の旧邸跡から移しました。高台寺鬼瓦席は四畳半の茶室で、点前畳の上に楽焼きの鬼瓦があることから名付けられました。鬼瓦は楽家四代目・一入(いちにゅう)が造り、かつて屋根の丸額に掛けられていました。高台寺鬼瓦席は千利休(せんのりきゅう)の孫・千宗旦(せんのそうたん)の侘びた手法を受け継ぎ、付書院や貴人口など町人貴族的な雰囲気を表現したものと言われています。
灰屋紹益は江戸時代初期の1607年(慶長12年)に書家・陶芸家・芸術家である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の甥・本阿弥光益(ほんあみこうえき)の子として生まれました。その後京都の豪商・灰屋紹由(はいやじょうゆう)の養子になって灰屋を継ぎました。灰屋は屋号で、姓は佐野です。佐野家は南北朝時代の永和年間(1375年~1379年)頃から藍染(あいぞめ)に使用する紺灰(こんばい)を扱うことを生業としました。灰屋家は江戸時代初期に京の三長者と言われる茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の茶屋家(ちゃやけ)・角倉了以(すみのくらりょうい)の角倉家(すみのくらけ)・後藤四郎兵衛家(ごとうしろべえけ)の後藤家と肩を並べるようになりました。灰屋紹益は本阿弥光悦、公卿・歌人・能書家である烏丸光広(からすまるみつひろ)、俳人・歌人・歌学者である松永貞徳(まつながていとく)、公卿・歌人である飛鳥井雅章(あすかいまさあき)らに師事し、茶の湯・挿花・書画・蹴鞠 (けまり) ・和歌などに通じ、京都町衆の指導者として活躍しました。また文筆にすぐれ、随筆「にぎはひ草」も記しました。ちなみに第108代・後水尾天皇、八条宮智忠親王(はちじょうのみやとしただしんのう)らとも交友を持ったとも言われています。1631年(寛永8年)に第107代・後陽成天皇の第4皇子で、関白・近衛信尋(このえのぶひろ)と争って、2代目・吉野太夫を身請けして妻にしました。なお灰屋紹益は1691年(元禄4年)11月12日に亡くなりました。
2代目・吉野太夫は江戸時代初期の1606年(慶長11年)4月10日に西国の武士・松田武左衛門の娘・松田徳子(まつだのりこ)として方広寺(ほうこうじ)近くで生まれたと言われています。1613年(慶長18年)に7歳で禿(かむろ)になり、1620年(元和6年)に14歳で遊女の最高ランクである太夫になりました。吉野太夫の名前は廓の桜を見て、「ここにさへ さぞな吉野は 花盛り」と詠んだことに由来するそうです。その後「六条の七人衆の筆頭」・「寛永三名妓の一人」・「天下随一の太夫」と謳われました。その名声は遠く中国にまで及び、「東に林羅山(はやしらざん)、西の徳子よし野」と言われました。吉野太夫は和歌・連歌・俳諧に優れ、琴・琵琶・笙が巧みで、更に書道・茶道・香道・華道・囲碁などを極めたと言われています。吉野太夫は常照寺(じょうしょうじ)開山・日乾上人(にっけんしょうにん)に帰依し、1628年(寛永5年)に常照寺に山門(赤門)を寄進しました。1631年(寛永8年)に26歳で豪商・灰屋紹益(はいやじょうえき)に身請けされて妻になりました。1643年(寛永20年)に38歳で亡くなり、遺言で常照寺に葬られました。
楽家四代目・一入は江戸時代前期の1640年(寛永17年)に楽家三代目・道入(どうにゅう)の子として生まれました。1656年(明暦2年)に吉左衛門を襲名し、1691年(元禄4年)に養子・宗入に家督を譲って一入に改めました。楽家四代目・一入は千利休の百回忌と相まって楽家初代・長次郎(ちょうじろう)の作を倣い、父・道入の技法を取り入れ、朱釉(しゅゆう)を得意とし、小ぶりの妙品に味わいを出していると言われています。なお楽家四代目・一入は1696年(元禄9年)2月24日に亡くなりました。
高台寺見どころ

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