高台寺天満宮・高台寺見どころ

高台寺天満宮

●高台寺天満宮は江戸時代初期の1606年(慶長11年)に北政所が高台寺を創建した際、日頃崇拝していた綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)の祭神・菅原道真(すがわらのみちざね)を勧請して鎮守社として祀りました。高台寺天満宮は当初境内の上壇に祀られ、北政所の兄・木下家定(きのしたいえさだ)が社殿を建立しました。その後年々崇敬者が増えたことから直接参詣できるように境内の下壇に移され、下河原の高台天神と親しまれました。明治維新後の神仏分離(廃仏毀釈)によって上壇の旧地に再度移され、2006年(平成18年)の高台寺開創四百年に際し、再び現在の下壇の旧地に移されました。高台寺天満宮には開運・出世・健康長寿・災難厄除などのご利益があると言われています。
北政所(ねね・おね)は戦国時代(室町時代後期)の1548年(天文17年)または1549年(天文18年)に杉原定利(すぎはらさだとし)と朝日殿(あさひどの)の次女として尾張国朝日村(愛知県清須市)に生まれました。その後叔母・七曲殿(ななまがりどの)の嫁ぎ先である浅野長勝(あさのながかつ)の養女になりました。1561年(永禄4年)に14歳で関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)と恋愛結婚しました。北政所と豊臣秀吉の間に子供はなかったが、いずれも賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に数えられた加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)など豊臣秀吉・北政所の親類縁者を養子や家臣として養育しました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が関白になると従三位に叙せられ、北政所の称号を許されました。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくてい)に第107代・後陽成天皇が行幸し、無事に還御すると従一位に昇叙しました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの)とともに豊臣秀頼(とよとみひでより)を後見し、1603年(慶長8年)に豊臣秀頼と徳川家康(とくがわいえやす)の孫で、徳川秀忠(とくがわひでただ)の長女・千姫(せんひめ)と結婚すると落飾し、朝廷から院号を賜って高台院快陽心尼(高台院湖月心尼)と称しました。1606年(慶長11年)に高台寺を創建し、豊臣秀吉の菩提(ぼだい)を弔いました。なお北政所は1624年(寛永元年)10月17日に亡くなりました。
綱敷天満宮は起源が明確ではありません。綱敷天満宮の名称は平安時代前期の901年(延喜元年)に菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府(だざいふ)に左遷された際、博多に上陸した菅原道真の為に船の綱を敷いて御座にしたことが由来と言われています。江戸時代後期の寛政年間(1789年~1801年)に本殿が建立され、1934年(昭和9年)に本殿を保護する覆屋が建てられました。また1934年(昭和9年)に区画整理によって西側に祀られていた行衛天満宮(ゆきえてんまんぐう)と合併し、綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)になりました。なお綱敷行衛天満宮は松尾大社(まつのおたいしゃ)の境外末社で、京都府京都市下京区御前通北小路下るにあります。
菅原道真は平安時代前期の845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善(すがわらのこれよし)と母・伴真成(とものまさしげ)の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)で歴史を学ぶ紀伝道(きでんどう)を専攻する文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)になり、正六位下・下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう) に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔(しきぶしょう)・大学寮紀伝道の教官である文章博士(もんじょうはかせ)になりました。880年(元慶4年)に父・菅原是善が亡くなると祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)以来の私塾・菅家廊下(かんけろうか)を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守(讃岐国司)に任命されて式部少輔・文章博士を辞して讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議(さんぎ)・式部大輔(しきぶのたいふ)に任ぜられ、太政官(だいじょうかん)の最高幹部として国政を担う公卿(くぎょう)に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣(うだいじん)に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(告げ口)により、太宰府(だぜいふ)に左遷されました。その後903年(延喜3年)3月25日(旧暦2月25日)に太宰府で亡くなりました。
高台寺見どころ

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