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高山寺遺香庵・高山寺見所(修学旅行・観光)
高山寺遺香庵
●高山寺遺香庵は明恵上人700年遠忌に際し、1931年(昭和6年)1月19日に住職・土宜覚了(どきかくりょう)が境内の整備の一環として建てました。遺香庵は実業家の高橋箒庵(たかはしそうあん)ら全国の茶道家100人の篤志によって建てられ、茶室の設計は数寄屋大工である3代・木村清兵衛(きむらせいべい)が行いました。
明恵上人は平安時代末期の1173年(承安3年)2月21日に高倉上皇(第80代・高倉天皇)の武者所に仕えていた平重国(たいらのしげくに )と紀伊国湯浅城城主・湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の四女の子として生まれました。1180年(治承4年)に両親が亡くなり、翌1181年(養和元年)に神護寺(じんごじ)に入り、尊実(そんじつ)・景雅(けいが)らに密教・華厳(けごん)を学び、鎌倉時代初期の1188年(文治4年)に叔父で、文覚(もんがく)の弟子・上覚(じょうかく)を師事して出家し、奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院(かいだんいん)で修行者が遵守すべき具足戒(ぐそくかい)を受けました。また勧修寺(かじゅうじ)慈尊院(じそんいん)2世・興然(こうぜん)から密教を学び、東大寺尊勝院(そんしょういん)で華厳学の研究に励みました。1195年(建久6年)に紀州白上の峰(しらがみ)に遁世して籠り、1198年(建久9年)に高雄(たかお)に戻ったが、その後紀伊国内を転々としました。1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)から栂尾(とがのお)の地を下賜されて高山寺を開山しました。明恵上人は華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。なお明恵上人は「摧邪輪(ざいじゃりん)」・「摧邪輪荘厳記(しょうごんき)」・「華厳唯心義(けごんゆいしん)」・「華厳信種義(けごんしんしゅぎ)」・「入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)」などを記しました。また明恵上人は40年の夢想を記録した「夢記」も記しました。
●高山寺遺香庵庭園は7代目小川治兵衛(おがわじへえ)が作庭しました。遺香庵庭園は1995年(平成7年)に京都市の名勝に指定されました。なお遺香庵庭園の最上部にある腰掛には鋳金工芸作家・香取秀真(かとりほつま)銘の梵鐘が掛けられています。
7代目小川治兵衛は1860年(万延元年)5月25日に山城国乙訓郡神足村(京都府長岡京市)に生まれました。1877年(明治10年)に江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1764年)から続く植木屋治兵衛・小川植治の養子になり、1879年(明治12年)に七代目小川治兵衛を襲名しました。明治時代初期に京都東山・南禅寺界隈の別荘地で、東山を借景に琵琶湖疏水を利用した近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を作庭しました。なお7代目小川治兵衛はいずれも国の名勝に指定されている平安神宮・円山公園・無鄰庵(山縣有朋別邸)・清風荘(西園寺公望別邸)・対龍山荘(市田弥一郎邸)・慶雲館庭園・旧古河庭園などを作庭しました。また京都御苑・京都御所・修学院離宮・桂離宮・二条城・清水寺・南禅寺・妙心寺・法然院・青蓮院・仁和寺などの庭園などを作庭・修景もしました。
高山寺見どころ