高山寺開山堂・高山寺見所(修学旅行・観光)

高山寺開山堂

●高山寺開山堂は江戸時代中期の1723年(享保8年)に禅堂院跡に再建されました。開山堂は鎌倉時代に高山寺中興の祖・明恵(みょうえ)が晩年を過ごし、終焉の地とも言われる禅堂院が建立されていた場所です。開山堂はかつて室町時代の兵火で焼失し、江戸時代前期の1636年(寛永13年)頃に秀融・永弁が再建したが、江戸時代中期の1717年(享保2年)に御廟・禅堂院や高山寺の塔頭である宝性院(ほうしょういん)などとともに焼失し、1723年(享保8年)に再度再建されました。なお開山堂は明恵上人坐像(重要文化財)を安置しています。
明恵上人は平安時代末期の1173年(承安3年)2月21日に高倉上皇(第80代・高倉天皇)の武者所に仕えていた平重国(たいらのしげくに )と紀伊国湯浅城城主・湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の四女の子として生まれました。1180年(治承4年)に両親が亡くなり、翌1181年(養和元年)に神護寺(じんごじ)に入り、尊実(そんじつ)・景雅(けいが)らに密教・華厳(けごん)を学び、鎌倉時代初期の1188年(文治4年)に叔父で、文覚(もんがく)の弟子・上覚(じょうかく)を師事して出家し、奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院(かいだんいん)で修行者が遵守すべき具足戒(ぐそくかい)を受けました。また勧修寺(かじゅうじ)慈尊院(じそんいん)2世・興然(こうぜん)から密教を学び、東大寺尊勝院(そんしょういん)で華厳学の研究に励みました。1195年(建久6年)に紀州白上の峰(しらがみ)に遁世して籠り、1198年(建久9年)に高雄(たかお)に戻ったが、その後紀伊国内を転々としました。1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)から栂尾(とがのお)の地を下賜されて高山寺を開山しました。明恵上人は華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。なお明恵上人は「摧邪輪(ざいじゃりん)」・「摧邪輪荘厳記(しょうごんき)」・「華厳唯心義(けごんゆいしん)」・「華厳信種義(けごんしんしゅぎ)」・「入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)」などを記しました。また明恵上人は40年の夢想を記録した「夢記」も記しました。
一般的に開山堂は寺院の開山の像を安置する建物です。開山は寺院に最初に住した僧侶のことを指します。開山堂は祖師堂(そしどう)・御影堂(みえいどう・ごえいどう)・影堂(えいどう)などとも言われています。
●高山寺開山堂は宝形造(ほうぎょうづくり)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。なお宝形造は方形造とも言われています。
高山寺見どころ

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