高山寺石水院・高山寺見どころ

高山寺石水院

●高山寺石水院は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●高山寺石水院は鎌倉時代前期(1185年~1274年)に建立されました。高山寺石水院は元々東経蔵として金堂の東に建立されていたが、鎌倉時代の1228年(安貞2年)の洪水によって東経蔵の谷向いに建立されていた石水院が亡失し、その後東経蔵が春日明神(かすがみょうじん)・住吉明神(すみよしみょうじん)を祀って石水院の名を受け継ぎました。1889年(明治22年)に現在の場所に移されて住宅様式に改められました。なお高山寺石水院はかつて後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の学問所(賀茂の別院)で、高山寺中興の祖・明恵(みょうえ)の住房跡とも言われています。
第82代・後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)は1180年(治承4年)8月6日に第80代・高倉天皇と藤原信隆(ふじわらののぶたか)の娘・藤原殖子(ふじわらのしょくし)の第4皇子として生まれました。1183年(寿永2年)に第81代・安徳天皇が平氏に擁されて都落ちしたことから祖父・後白河法皇(第77代・後白河天皇)の意向で皇嗣に選ばれ、神器継承なしに天皇に即位しました。1192年(建久3年)に後白河法皇(第77代・後白河天皇)が崩御すると天皇親政を行い、1198年(建久9年)に第83代・土御門天皇に譲位し、その後第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第85代・仲恭天皇の3代・23年間に渡って院政を行いました。その後1221年(承久3年)に鎌倉幕府第2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の追討を謀って承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こしたが、鎌倉幕府に完敗して隠岐に流され、18年間の侘しい生活を過ごし、1239年(延応元年)3月28日に隠岐で崩御しました。第82代・後鳥羽天皇は蹴鞠(けまり)・琵琶(びわ)など芸能や和歌に秀で、公家・歌人である藤原定家(ふじわらのていか)らに勅撰和歌集「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)・鎌倉時代初期編纂」をつくらせました。
明恵上人は平安時代末期の1173年(承安3年)2月21日に高倉上皇(第80代・高倉天皇)の武者所に仕えていた平重国(たいらのしげくに )と紀伊国湯浅城城主・湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の四女の子として生まれました。1180年(治承4年)に両親が亡くなり、翌1181年(養和元年)に神護寺(じんごじ)に入り、尊実(そんじつ)・景雅(けいが)らに密教・華厳(けごん)を学び、鎌倉時代初期の1188年(文治4年)に叔父で、文覚(もんがく)の弟子・上覚(じょうかく)を師事して出家し、奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院(かいだんいん)で修行者が遵守すべき具足戒(ぐそくかい)を受けました。また勧修寺(かじゅうじ)慈尊院(じそんいん)2世・興然(こうぜん)から密教を学び、東大寺尊勝院(そんしょういん)で華厳学の研究に励みました。1195年(建久6年)に紀州白上の峰(しらがみ)に遁世して籠り、1198年(建久9年)に高雄(たかお)に戻ったが、その後紀伊国内を転々としました。1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)から栂尾(とがのお)の地を下賜されて高山寺を開山しました。明恵上人は華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。なお明恵上人は「摧邪輪(ざいじゃりん)」・「摧邪輪荘厳記(しょうごんき)」・「華厳唯心義(けごんゆいしん)」・「華厳信種義(けごんしんしゅぎ)」・「入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)」などを記しました。また明恵上人は40年の夢想を記録した「夢記」も記しました。
高山寺見どころ

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