鞍馬寺の歴史は鑑禎上人が毘沙門天を祀る草庵を結んだのが起源
鞍馬寺の時代別年表と重要人物
鞍馬寺は770年(宝亀元年)に鑑真和上の高弟・鑑禎上人が毘沙門天を祀る草庵を結んだのが起源です。夢告と白馬の導きで鞍馬山に登り、鬼女に襲われたが、毘沙門天に助けられて毘沙門天を祀る草庵を結びました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【鞍馬寺が建立されている鞍馬山】
- 鞍馬寺が建立されている鞍馬山は京都市左京区にある標高約584メートルの山です。鞍馬山は東側の鞍馬川と西側の貴船川に挟まれ、尾根が南北に伸びています。鞍馬山は古くから霊山とされ、修験道(しゅげんどう)の行場として栄えました。鞍馬山は暗部山(くらぶやま)とも言われていました。
【鞍馬寺の起源・始まり】
- 鞍馬寺は奈良時代後期の770年(宝亀元年)に律宗(りっしゅう)の宗祖・鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟・鑑禎上人(がんていしょうにん)が毘沙門天(びしゃもんてん)を祀る草庵を結んだのが起源と言われています。「鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)」によると770年(宝亀元年)正月(1月)4日の寅の夜、鑑禎上人は夢告と白馬の導きにより、鞍馬山に登った際に鬼女に襲われたが、鬼女は倒れてきた枯れ木に潰されました。翌朝、そこに毘沙門天があり、鑑禎上人は毘沙門天に助けられたことから毘沙門天を祀る草庵を結んだと言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 796年(延暦15年)に造東寺長官・藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を安置する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の助けによって鞍馬山に登ると鑑禎上人の草庵(鞍馬寺)があり、毘沙門天が安置されていました。この夜に「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告があり、伽藍を建立して毘沙門天を安置し、その後千手観音(せんじゅかんのん)を造仏して安置しました。「日本後紀(にほんこうき)」延暦15年(796年)の条に藤原伊勢人の夢に貴船神社(きふねじんじゃ)の神が現れ、鞍馬寺を建立するように託宣したと記されています。
- 寛平年間(889年~897年)に東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し、鞍馬寺を真言宗(しんごんしゅう)に改めたと言われています。
- 940年(天慶3年)に由岐大明神(ゆきだいみょうじん)が宮中から鞍馬山に遷され、由岐神社が鞍馬寺の鎮守社になりました。
- 平安時代中期に白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう)、「源氏物語」の作者・紫式部(むらさきしきぶ)が仕えた藤原道長(ふじわらのみちなが)、藤原頼通(ふじわらのよりみち)、藤原師通(ふじわらのもろみち)などが鞍馬寺に参詣しました。「枕草子(まくらのそうし)」の作者・清少納言(さいしょうなごん)は「近うて遠きもの、くらまのつづらをりといふ道」と記し、「更級日記(さらしなにっき)の作者・菅原孝標の女は「春ごろ、鞍馬にこもりたり。山際霞みわたりのどやかなるに」と記しています。
- 1126年(大治元年)に火災によって焼失しました。
- 平安時代後期に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の僧・重怡(じゅうい)が入寺し、保延年間(1135年~1140年)に真言宗から天台宗(てんだいしゅう)に改められ、鞍馬寺が青蓮院(しょうれんいん)に属するようになりました。
- 平安時代後期に牛若丸(うしわかまる)と言われた源義経(みなもとのよしつね)が鞍馬寺に入山して修行しました。源義経は昼間に由岐神社(ゆきじんじゃ)の上手にあった東光坊で仏道修行、夜に僧正ガ谷で天狗から兵法を授けられたという伝説が残されています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1229年(寛喜元年)に青蓮院門跡が鞍馬寺検校職を兼務するようになり、鞍馬寺は正式に青蓮院の末寺になりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が鞍馬寺で花見を行いました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 1572年(元亀3年)に武田信玄(たけだしんげん)から鞍馬寺に戦勝の礼状が届いたと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1580年(天正8年)織田信長(おだのぶなが)の代官から鞍馬寺に安堵状が届いたと言われています。
- 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から鞍馬寺に租税免状の朱印状が届いたと言われています。
- 1588年(天正16年)に豊臣秀吉が母・大政所(おおまんどころ・仲(なか)・天瑞院(てんずいいん))の病気平癒を祈願し、鞍馬寺に2,000石を奉納したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1610年(慶長15年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が由岐神社を再興しました。
- 1730年(享保15年)に鞍馬寺が青蓮院だけでなく、日光輪王寺(にっこうりんのうじ)の末寺にもなりました。
- 江戸時代中期に鞍馬寺に塔頭(たっちゅう)が十院(真勝院・月性院・妙寿院・宝積院・大蔵院・吉祥院・戒光院・歓喜院・円光院・福生院)、坊が九坊(普門坊・松円坊・妙覚坊・薬師坊・本住坊・乗円坊・梅本坊・実相坊・蔵之坊)があり、栄えていました。
- 1814年(文化11年)に火災によって一山が焼失し、その後衰退しました。
- 1855年(安政2年)に日光輪王寺の末寺のみになりました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1868年(明治元年)に鞍馬寺が再び青蓮院の末寺に戻りました。
- 1945年(昭和20年)に本殿金堂などが焼失しました。
- 1947年(昭和22年)に住職・信楽香雲(しがらきこううん)が鞍馬弘教を開宗し、1949年(昭和24年)に天台宗から独立しました。
- 2018年(平成30年)に台風21号によって拝殿が倒壊し、山内に倒木被害がありました。
【鞍馬寺の開山とされる鑑禎上人】
鑑禎上人は722年に沂州で生まれました。開元寺に住し、天台山に入り、玄宗の勅によって仏門に入りました。その後鑑真和上に師事して律・天台を学び、753年(天平勝宝5年)に鑑真和上とともに日本に来日しました。鑑禎上人は鑑真和上が唐(中国)から伴ってきた弟子8名の内、最年少の弟子でした。754年(天平勝宝6年)に鑑真和上が第45代・聖武上皇などに戒を授けた際に鑑真和上を助けました。また戒壇院での授戒に従事したり、大安寺唐院で天台・律などを教授したりしました。759年(天平宝字3年)に唐招提寺が創建されると鑑真和上とともに唐招提寺に移りました。鑑禎上人は鑑真和上の伝記「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」・「延暦僧録」を著しました。なお鑑禎上人は809年(大同4年)に亡くなりました。
【鞍馬寺 備考】
*参考・・・鞍馬寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ