落柿舎去来祭(日程・時間・・・)

落柿舎

落柿舎去来祭

落柿舎去来祭(日程・時間・・・)を紹介しています。去来祭は毎年スポーツの日に行われています。去来祭では祠(ほこら)前で祭事を行います。その後江戸時代前期の俳人・向井去来(むかいきょらい)と江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)研究者による講演や俳句会も行われます。(要確認)なお向井去来は1704年(宝永元年)に落柿舎で亡くなりました。(詳細下記参照)

【落柿舎去来祭2018 日程時間(要確認)】
落柿舎去来祭2018は2018年(平成30年)10月8日(月曜日)11:00から行われます。(現在確認中・要注意)

【落柿舎去来祭 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町
最寄り駅・バス停・・・嵯峨小学校前(徒歩約7分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から落柿舎は28系統(D3乗り場)
*四条河原町からは11系統
*四条烏丸からは11系統
*河原町丸太町からは93系統
路線・時刻表・運賃チェック

*JR山陰本線の場合、最寄り駅は嵯峨嵐山駅(徒歩約15分)
*嵐電(京福電鉄)嵐山線の場合、最寄り駅は嵐山駅(徒歩約15分)

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【落柿舎去来祭 歴史・簡単概要】
落柿舎去来祭(きょらいさい)では祠(ほこら)前で祭事を行います。その後江戸時代前期の俳人・向井去来(むかいきょらい)と江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)研究者による講演や俳句会も行われます。(要確認)
向井去来は江戸時代前期の俳人(俳諧師)で、蕉門十哲の一人です。向井去来は1651年(慶安4年)に儒医・向井元升の二男として長崎興善町で生まれ、父に伴って京都に上京したが、一時福岡の母方で武芸を極めました。その後武芸の道を捨て、陰陽道で堂上家に仕えました。1684年(貞享元年)以降は俳諧に専念して松尾芭蕉に師事し、翌1685年(貞享2年)からは嵯峨落柿舎に隠棲し、「猿蓑(さるみの)」を編纂したり、晩年に芭蕉を研究した俳論「去来抄」を記したりしました。向井去来は1704年(宝永元年)に落柿舎で亡くなりました。なお向井去来は松尾芭蕉から「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と評されています。
松尾芭蕉は江戸時代前期の俳人(俳諧師)です。松尾芭蕉は1644年(寛永21年)に伊賀上野に生まれ、藤堂新七郎良精家の料理人として仕え、北村季吟に俳諧を学びました。1673年(寛文13年)に江戸に上って宝井其角が入門し、1680年(延宝8年)には深川に草庵・芭蕉庵を結びました。1682年(天和2年)の草庵焼失後に奥州に旅立ち、1694年(元禄7年)に大阪で亡くなりました。

【落柿舎 歴史・簡単概要】
落柿舎は1685年(貞享2年)~1686年(貞享3年)に俳諧師・松尾芭蕉の弟子で、蕉門十哲に数えられた俳諧師・向井去来が入手して営んだ草庵が起源と言われています。元々、草庵は豪商が建てたもので、正確な場所は不明です。1689年(元禄2年)に「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉が12月に初めて訪れ、12月24日に向井去来・松尾芭蕉が鉢叩きを聞きました。1689年(元禄2年)頃に庭に植えられていた40本の柿の木の実が一夜にしてほとんどが落ちたことが庵名「落柿舎」の由来になっています。1691年(元禄4年)に松尾芭蕉が再度訪れ、4月18日から5月4日まで滞在し、「嵯峨日記(さがにっき)」を記しました。5月2日に向井去来・松尾芭蕉・河合曽良は大堰川で船遊びを楽しみました。1694年(元禄7年)5月22日に松尾芭蕉が三度訪れ、同年10月12日に大坂南御堂前の花屋仁右衛門宅で亡くなりました。1770年(明和7年)に向井去来の親族で、蝶夢門下の俳諧師・井上重厚が天龍寺の塔頭・弘源寺跡に再建し、捨庵と称したとも言われています。明治時代(1868年~1912年)初期に再建されたと言われています。1937年(昭和12年)に新聞記者で、俳人・永井瓢齋、工藤芝蘭子ら8人が落柿舎を買い取り、保存会を設立したと言われています。
*参考・・・落柿舎(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

【落柿舎去来祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
落柿舎(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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