京都刀剣御朱印めぐり2018/7/21
京都刀剣御朱印めぐり(日程・時間・・・)を紹介しています。京都刀剣御朱印めぐりでは三日月宗近・一期一振ゆかりの粟田神社(あわたじんじゃ)、鶴丸国永ゆかりの藤森神社(ふじのもりじんじゃ)、宗三左文字・薬研藤四郎ゆかりの建勲神社(けんくんじんじゃ)、骨喰藤四郎ゆかりの豊国神社(とよくにじんじゃ)をめぐります。(詳細下記参照)
【京都刀剣御朱印めぐり2018 日程時間(要確認)】
京都刀剣御朱印めぐり2018(第7弾)は2018年7月21日(土曜日)から行われます。
【京都刀剣御朱印めぐり マップ・地図】
(ルートの参考例・要確認)
京都駅→JR奈良線→JR藤森駅→藤森神社→京阪藤森駅(京阪墨染駅)→京阪線→京阪七条駅→豊国神社→京阪七条駅→京阪線→京阪三条駅→粟田神社→神宮道バス停→市バス46号系統→ライトハウス前バス停→建勲神社→船岡山バス停→市バス205系統→京都駅前バス停
*徒歩やバスの乗車時間が長いのが問題点かもしれません。多分市バス・京都バス一日乗車券カードなどを使ったもっといいルートがあるかもしれません。
路線・時刻表・運賃チェック
【京都刀剣御朱印めぐり 歴史・簡単概要】
京都刀剣御朱印めぐりでは三日月宗近(みかづきむねちか)・一期一振(いちごひとふり)ゆかりの粟田神社、鶴丸国永(つるまるくになが)ゆかりの藤森神社、宗三左文字(そうざさもんじ)・薬研藤四郎(やげんとうしろう) ゆかりの建勲神社、骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)ゆかりの豊国神社をめぐります。
●三日月宗近(国宝)は平安時代に三条宗近(さんじょうむねちか)が造刀し、天下五剣(てんがごけん)のひとつに数えられています。三日月宗近の名称は刀身に三日月形の打除け(うちのけ)が多くみられることに由来しているそうです。
●一期一振は鎌倉時代中期に粟田口吉光(あわたぐちよしみつ・藤四郎)が造刀しました。一期一振の名称は粟田口吉光が短刀を多く造刀し、太刀は一期一振しか造刀しなかったことに由来しています。なお一期一振は一期一振藤四郎などとも言われます。
●鶴丸国永は平安時代に刀工・国永(くになが)が造刀しました。鶴丸の名称はかつて鶴丸国永が収められていた太刀拵(たちごしらえ)に鶴の蒔絵が施されていたことに由来します。
●宗三左文字(重要文化財)は南北朝時代に造刀されました。宗三左文字の名称はかつて三好宗三(三好政長)が所有していたことに由来します。なお宗三左文字は三好左文字・義元左文字などとも言われます。
●薬研藤四郎は鎌倉時代中期に粟田口吉光(あわたぐちよしみつ・藤四郎)が造刀しました。薬研藤四郎の名称は室町幕府管領・畠山政長が自害する際、何度やっても腹に刺さらず、腹を立てて投げつけたところ薬研を貫いて突き刺さったことに由来しています。薬研は薬草などを細かくする道具です。
●骨喰藤四郎(重要文化財)は鎌倉時代中期に粟田口吉光(あわたぐちよしみつ・藤四郎)が造刀しました。骨喰藤四郎の名称は斬るまねをするだけで、骨まで砕かれるほどの切れ味に由来するそうです。なお骨喰藤四郎は元々長刀(なぎなた)だったそうです。
天下五剣は三日月宗近・童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)・鬼丸国綱(おにまるくにつな)・大典太光世(おおでんたみつよ、おおてんたみつよ)・数珠丸(じゅずまる)です。
【京都刀剣御朱印めぐり 粟田神社】
粟田神社(あわたじんじゃ)は起源が明確ではありません。粟田神社は古代の豪族・粟田氏が氏神として祀ったのが起源とも言われています。また粟田神社は876年(貞観18年)に第56代・清和天皇が兵火や疫病に対する勅を発し、全国の諸神にお供えをして、国家と民の安全を祈願させた際、大己貴命(おおなむちのみこと)からの神告により、八坂神社の祭神・素戔鳴尊(牛頭天王)に縁がある現在の場所に造営されたとも言われています。勅使・藤原興世が7日7晩八坂神社で祈願した際、満願の夜に老翁が枕物に立ち、「我を祀れば、必ず国家と民は安全なり」と告げられたことから朝廷に奏上し、勅命によって社殿を造営して、大己貴命・素戔鳴尊を祀ったとも言われています。
粟田神社・京都刀剣御朱印めぐり
【京都刀剣御朱印めぐり 藤森神社】
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は起源が明確ではありません。藤森神社は社伝によると203年(神功皇后摂政3年)神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐(さんかんせいばつ)から凱旋した際、軍旗や武具を埋めて塚を造ったのが起源と言われています。その後816年(弘仁7年)に伏見稲荷大社の社殿が稲荷山から現在の場所に造営されたことから現在の場所に移ったとも言われています。なお神功皇后は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后とされています。
藤森神社・京都刀剣御朱印めぐり
【京都刀剣御朱印めぐり 建勲神社】
建勲神社(たけいさおじんじゃ・けんくんじんじゃ)・建勲さんは1869年(明治2年)に第122代・明治天皇が戦国乱世(戦国時代)において天下統一や朝儀復興などの事業を進めた織田信長(おだのぶなが)の偉勲を讃える為に健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建を決定したのが起源です。翌1870年(明治3年)に第122代・明治天皇から神号・建勲神社を賜り、1875年(明治8年)に別格官幣社に列せられ、標高約111.7メートルの船岡山(ふなおかやま)を賜りました。船岡山は平安京の四神相応(しじんそうおう)で、北方を守護する玄武(げんぶ)に位置し、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって織田信長の廟所と定められた場所でした。応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の際には船岡山城も築城されました。その後1880年(明治13年)に社殿が建立され、織田信長の嫡子(長男)・織田信忠(おだのぶただ)が配祀され、1910年(明治43年)に本殿以下諸舎を船岡山山麓から山頂に移しました。なお建勲神社の前身は織田信長の子孫で、出羽国天童藩3代藩主(天童藩知事)・織田信敏(おだのぶとし)の東京邸内に造営された建勲社(たけいさおしゃ)です。
建勲神社・京都刀剣御朱印めぐり
【京都刀剣御朱印めぐり 豊国神社】
豊国神社(とよくにじんじゃ)は1598年(慶長3年)に亡くなり、火葬されることなく、伏見城内に安置されていた関白・豊臣秀吉の遺体が遺命により、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、その麓に廟所が建立されたのが起源です。その後豊臣家が滅亡すると徳川家康が後水尾天皇の勅許を得て、秀吉の神号「豊国大明神」を剥奪し、豊国神社を取り壊して、秀吉の霊を方広寺大仏殿裏手南東に建てた五輪石塔に移しました。
豊国神社・京都刀剣御朱印めぐり
【京都刀剣御朱印めぐり 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
●京都刀剣ゆかりの地には粟田神社・花山稲荷神社・北野天満宮・建勲神社・大覚寺・豊国神社・藤森神社・本能寺・二条城・壬生寺などがあります。
京都刀剣ゆかりの地