「祇園の夜桜」・初代祇園の枝垂桜|円山公園

円山公園

「祇園の夜桜」・初代祇園の枝垂桜

八坂神社では北側に数株の彼岸桜が植えられ、江戸時代に「祇園の夜桜」として親しまれました。明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈や上知令により、「祇園の夜桜」は初代祇園の枝垂桜に受け継がれました。現在は2代目祇園の枝垂桜に「祇園の夜桜」が受け継がれ、例年桜の見ごろである3月下旬頃から4月上旬頃にライトアップ・かがり火が行われています。

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【「祇園の夜桜(ぎおんのよざくら)」・初代祇園の枝垂桜】

八坂神社ではかつて周辺に雑木林が広がり、祇園林と言われていました。ちなみに祇園林には平安時代前期の876年(貞観18年)に天神(祇園神)が降り立って垂迹(すいじゃく)したとされています。江戸時代(1603年~1868年)末期の1864年(元治元年)に刊行された「花洛名勝図会(からくめいしょずえ)」に「北いにしへは雑木林なりしが、今は彼岸桜数株を植て花の頃は一しほ美観なり」と記され、八坂神社北側の雑木林だった場所に数株の彼岸桜(ひがんざくら)が植えられ、花期が大変美しかったことが記されています。また「花洛名勝図会」には篝火が焚かれた祇園林の夜桜が描かれ、江戸時代から八坂神社の夜桜は有名でした。明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や上知令(あげちれい)により、八坂神社内に建立されていた寺院が廃寺になって建物が取り壊され、八坂神社の境内の一部が政府に没収され、1886年(明治19年)に円山公園として開園しました。八坂神社の社家・宝寿院に植えられていた初代祇園の枝垂桜は伐採されずに残され、明治維新後に一時途絶えていた篝火が復活し、「祇園の夜桜」として親しまれました。初代祇園の枝垂桜は女流歌人・与謝野晶子(よさのあきこ)が「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふひと みなうつくしき」と詠みました。また日本画家・東山魁夷(ひがしやまかいい)がノーベル賞作家・川端康成(かわばたやすなり)に勧められ、代表作とも言われる「花明り」に描きました。

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●初代祇園の枝垂桜は元々、八坂神社で「祇園の三院五坊(宝寿院・宝光院・神福院・竹坊・松坊・東梅坊・西梅坊・新坊)」に数えられた宝寿院の境内に植えられていました。宝寿院は参議・紀百継の子孫である紀氏が執行家になり、世襲支配したのが起源です。初代祇園の枝垂桜は江戸時代(1603年~1868年)中期の1727年(享保2年)に執行・建内繁継が宝寿院に植えたとも言われています。その後1886年(慶応2年)に宝寿院が焼失したが、初代祇園の枝垂桜は無事でした。明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈で宝寿院などが廃寺になり、初代祇園の枝垂桜も印鑑の材料として伐採される危機に見舞われたが、実業家・明石博高が五両で買い取ったとも言われています。初代祇園の枝垂桜は明治時代(1868年~1912年)中頃に盛観を極め、1938年(昭和13年)に国の天然記念物に指定されたが、1947年(昭和22年)に枯死しました。円山公園の名勝指定では「世ニ祇園ノ糸桜トスル巨樹又名高シ」と記され、初代祇園の枝垂桜の天然記念物指定では「花時盛観ヲ呈ス、白枝垂桜ノ地方的巨樹トシテ有數ノモノナリ」と記され、古くから桜の銘木として知られていました。また植物学者・三好学は「京都の祇園にあるものは白枝垂である」・「この桜は白枝垂で咲立ては微紅に帯び、後には真白になる」と記し、白っぽい花を咲かせていたとも言われています。初代祇園の枝垂桜は樹齢約200年・樹高約12メートル・根周り約4メートルでした。
●与謝野晶子は1878年(明治11年)に和菓子屋・駿河屋を営む鳳宗七と津祢の三女・鳳志ようとして生まれました。家業が傾き、三女だったことから父母に疎まれていたとも言われています。9歳で漢学塾に入り、その後堺市立堺女学校補習科に入学し、「源氏物語」などの古典に親しみました。卒業後に家業を手伝いながら古典を独習しました。その後浪華青年文学会に参加し、1900年(明治33年)に後に夫となる与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表しました。翌1901年(明治34年)に上京し、激しい恋心と若い女の官能を謳い上げた処女歌集「みだれ髪」を刊行し、その後鉄幹と結婚しました。1904年(明治37年)に日露戦争に従軍した弟を思う反戦詩「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表し、1911年(明治44年)に史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に詩を寄稿しました。1912年(明治45年)に外遊中の鉄幹の後を追ってフランス・パリに行き、ヨーロッパ各国を巡りました。1921年(大正10年)に建築家・西村伊作、画家・石井柏亭らとともにお茶の水に文化学院を創設し、日本初の男女共学を成立させました。与謝野晶子は12人の子どもを産んで育て、鉄幹の詩の売れ行きが悪くなった家計も支えました。なお与謝野晶子は1940年(昭和15年)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)に意識不明になり、1942年(昭和17年)5月29日に亡くなりました。

【「祇園の夜桜」・初代祇園の枝垂桜 備考】
京都桜ライトアップ2026(清水寺・円山公園・東寺・・・)

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