舞妓募集・応募(祇園甲部・宮川町・・・)
舞妓募集・応募
舞妓募集・応募に関する情報を紹介しています。京都・五花街(祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東)ではおおきに財団・お茶屋組合・置屋などが舞妓募集や仕込さん体験のページを公開しています。なおネットでは様々な情報が公開されている為、精査や確認が重要です。また家族と共有したり、相談したりすることも重要です。
【舞妓 募集リンク】(変更になっている場合があります。)
おおきに財団(公益財団法人京都伝統伎芸振興財団)舞妓募集
祇園甲部(都をどり)舞妓募集
祇園東舞妓募集
上七軒舞妓募集
宮川町
先斗町(鴨川をどり)舞妓募集
【舞妓 歴史・簡単概要】
舞妓は置屋(おきや)での仕込み期間とお茶屋での見習い期間を終え、置屋の女将とお茶屋組合の許可が出た場合になれます。仕込み期間中は置屋で女将さん・先輩舞妓などと一緒に住み込み、舞妓に必要不可欠な舞などの芸事や京言葉・立ち振舞いなどを学びます。仕込み期間中は1年程度と言われています。ただ個人差があり、短い場合には半年、長い場合には2年になるそうです。見習い期間中はお茶屋で待機し、雑用をこなしたり、先輩舞妓・芸妓と一緒にお座敷を務めたりします。見習い期間中は1ヶ月程度と言われています。なお年齢によっては舞妓ではなく、芸妓で見世出しになる場合もあります。
舞妓には忍耐力・体力、そして上下関係などの人間関係を良好に築く力やコミュニケーション力も不可欠と言われています。なお見習い期間中に脱落したり、舞妓になっても年季途中で舞妓を止める場合もあるそうです。
*参考・・・舞妓見世出し・舞妓wikipedia
【舞妓 関連資料】
舞妓関連情報を紹介しています。舞妓のある一日は次のように紹介されています。
起床(7:00)・朝食(7:00~9:00)・学校(9:00~16:00)・着付け(16:00~17:00)・お座敷(17:00~22:00)・夕食お風呂(22:00~24:00)・就寝(24:00)・睡眠時間(24:00~7:00)
舞妓のある一日・おおきに財団
舞妓の給料年収・Career Garden
【おおきに財団 歴史・簡単概要】
おおきに財団・公益財団法人京都伝統伎芸振興財団は京都・五花街(祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東)が誇る伝統伎芸をより多くの人に知ってもらい、保存・継承する為に京都五花街合同公演・都の賑いや弥栄会館ギオンコーナーなどの事業を行っています。またおおきに財団では舞妓を養成する置屋も紹介しています。
*参考・・・おおきに財団(公益財団法人京都伝統伎芸振興財団)
【祇園甲部 歴史・簡単概要】
祇園甲部(ぎおんこうぶ)は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗により、茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。1872年(明治5年)お茶屋一力亭9代目・杉浦治郎右衛門や初代京都府知事・長谷信篤などにより、祇園甲部歌舞会が設立されました。また同年には八坂女紅場(やさかにょこうば)が創設され、1951年(昭和26年)に学校法人になり、舞妓・芸妓を養成する祇園女子技芸学校(ぎおんじょしぎげいがっこう)を運営しています。なお祇園甲部の舞踊は京舞井上流、春には都をどり、秋には温習会を開催しています。
祇園甲部は現在五花街の中で最大の花街と言われています。(1881年(明治14年)祇園東が祇園甲部から分離・独立しました。)
*参考・・・祇園甲部・都をどりホームページ
【祇園東 歴史・簡単概要】
祇園東(ぎおんひがし)は祇園甲部(ぎおんこうぶ)と同じく、江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗により、茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。祇園東は1881年(明治14年)に祇園甲部から分離・独立し、祇園乙部と言われていました。その後戦後に祇園東新地、1952年(昭和27年)に祇園東に名称を変更しました。祇園東はかつて膳所藩屋敷があったことから膳所裏(ぜぜうら)とも言われているそうです。なお祇園東の舞踊は藤間流、秋には祇園をどりを開催しています。かつては温習会も開催していたが、現在はなくなりました。
*参考・・・祇園東・祇園をどりホームページ
【宮川町 歴史・簡単概要】
宮川町(みやがわちょう)は江戸時代に人気になった出雲・阿国(おくに)の歌舞伎踊りの頃から始まりました。宮川町は歌舞伎発祥の地とも言われています。宮川町では当初遊女などが接待していたが、江戸時代の三大改革によって打撃を受けました。1968年(昭和43年)に舞妓・芸妓を養成する東山女子技芸学校(ひがしやまじょしぎげいがっこう)が創立され、翌1969年(昭和44年)に東山女子学園が設立されました。その後1999年(平成11年)宮川筋3丁目から6丁目の一部は京都市の祇園町南歴史的景観保全修景地区に指定されました。なお宮川町の舞踊は尾上流、春に京おどり、秋にみずゑ会を開催しています。
宮川町の地名は京都三大祭りのひとつである祇園祭の際、神輿洗いが行われる鴨川(四条大橋の下流)を宮川と言ったことに由来するとも言われています。
*参考・・・宮川町・京おどりホームページ
【先斗町 歴史・簡単概要】
先斗町(ぽんとちょう)は江戸時代初期に鴨川の州を埋め立て、茶屋や旅籠が置かれたのが始まりと言われています。その後度々取り締りを受けたが、川端二条にあった二条新地(にじょうしんち)の出店に認められました。1870年(明治3年)に二条新町から独立しました。なお先斗町の舞踊は尾上流、春に鴨川をどり、秋に水明会を開催しています。
先斗町の地名はポルトガル語のponto(先)が語源とも言われています。また先斗町が鴨川と高瀬川の2本の川に挟まれていることから2枚の皮に挟まれている鼓に例えられ、鼓の「ポン」と鳴る音に掛けたとも言われています。更に高瀬川を行きかう高瀬舟の船頭衆のせんど丁に由来するとも言われています。(諸説あり)なお先斗町はかつて先斗(さきばかり)とも言われていたそうです。
*参考・・・先斗町・鴨川をどりホームページ
【上七軒 歴史・簡単概要】
上七軒(かみしちけん)は室町時代に北野天満宮が再建された際、残った資材を使って天満宮の東門前の松原に7軒の茶店が建てられたのが起源です。当初上七軒は七軒茶屋と称していたそうです。1587年(天正15年)関白・豊臣秀吉が北野天満宮で茶会(北野大茶湯)を開いた際、茶店が団子を献上しました。そしてその褒美にみたらし団子を商う特権と法会茶屋株を公許されました。上七軒の五つ団子の紋章はみたらし団子に由来しています。その後江戸時代には下の森や五番町に茶屋株を貸し、芸妓中心の花街として発展しました。なお上七軒の舞踊は花柳流、春に北野をどり、秋に寿会を開催しています。
上七軒は北野天満宮とのゆかりが深く、芸舞妓は天満宮の氏子になっているとも言われています。また北野天満宮の梅花祭などでは芸舞妓が野点の奉仕もしています。
*参考・・・上七軒・北野をどりホームページ