萬福寺の歴史は隠元隆琦が土地を与えられて創建したのが起源

萬福寺見どころ

萬福寺-修学旅行・観光ポイント

萬福寺は1661年(寛文元年)に隠元隆琦が創建したのが起源です。1658年(万治元年)に隠元隆琦は江戸に赴いて、江戸幕府4代将軍・徳川家綱に拝謁し、家綱が帰依したことから大和田殿があった土地が与えられました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

萬福寺見どころ

【萬福寺が建立されている場所】

  • 萬福寺が建立されている場所は第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の生母・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の別邸・大和田殿(おわだどの)が造営されていた場所です。この地は近衛家の所領でした。
  • 長崎・興福寺(こうふくじ)の僧・逸然性融(いつねんしょうゆう)らは萬福寺開山・隠元隆琦(いんげんりゅうき)の弟子・也嬾性圭(やらんしょうけい)に来日を招請したが、乗船した船が遭難して亡くなりました。その後逸然性融らは也嬾性圭の師で、日本でも名の知られていた隠元隆琦を招請することにしたが、隠元隆琦は高齢を理由に来日を一旦は辞退しました。しかし日本から度々招請があり、来日途中で亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいと思い、来日を決意しました。
  • 1654年(承応3年)に隠元隆琦は3年間の約束で、20名の弟子らとともに長崎に来日しました。最初に長崎・興福寺に住し、その後摂津国富田(大阪府高槻市)の普門寺(ふもんじ)に住しました。隠元隆琦は中国にに残した弟子に3年後に帰国すると約束していた為、来日3年目に弟子らから帰国を要請する手紙が多数届き、隠元隆琦も帰国を希望したが、元・妙心寺(みょうしんじ)住持の龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)らが日本に留まることを希望し、江戸幕府に働き掛けました。
  • 1658年(万治元年)に隠元隆琦は江戸に赴き、江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)に拝謁し、徳川家綱が隠元隆琦に帰依したことから1660年(万治3年)に江戸幕府から近衛家の所領で、後水尾天皇の生母・中和門院(近衛前子)の大和田殿があった土地が与えられました。

【萬福寺の起源・始まり】

  • 萬福寺は1661年(寛文元年)に隠元隆琦が創建しました。伽藍の建立には江戸幕府・徳川将軍家や諸大名らの援助を受け、1679年(延宝7年)頃に伽藍がほぼ完成したと言われています。隠元隆琦は中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)」と名付けました。なお萬福寺の住職は多くが中国(明)から渡来した僧侶で、儀式の作法や法式などにはその伝統が受け継がれています。
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【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

  • 1661年(寛文元年)に西方丈が建立されました。
  • 寛文年間(1661年~1672年)に侍真寮が建立されました。
  • 1662年(寛文2年)に法堂が建立されました。
  • 1663年(寛文3年)に東方丈・禅堂・寿蔵が建立されました。
  • 1665年(寛文5年)に通玄門が建立されました。
  • 1667年(寛文7年)に舎利殿が建立されました。
  • 1668年(寛文8年)に大雄宝殿・天王殿・斎堂・鐘楼・鼓楼が建立されました。
  • 1669年(寛文9年)に祖師堂・伽藍堂が建立しました。
  • 1674年(延宝2年)に祠堂が建立されました。
  • 1675年(延宝3年)に開山堂・慈光堂が建立しました。
  • 1679年(延宝7年)に鼓楼が建立されました。
  • 1680年(延宝6年)に三門が建立しました。
  • 1688年(元禄6年)に総門が建立されました。
  • 1694年(元禄7年)に客殿が建立されました。
  • 1694年(元禄7年)頃に庫裏が建立されました。
  • 1701年(元禄14年)に威徳殿が建立されました。
  • 1821年(文政4年)に大庫裏が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

  • 1876年(明治9年)に萬福寺が独立し、黄檗宗を公称するようになりました。なお禅宗は日本で、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗に分類されます。
  • 1928年(昭和3年)に売茶堂・有聲軒が建立されました。
  • 1972年(昭和47年)に中和園が開山・隠元隆琦の300年大遠諱に合わせて整備されました。また聯灯堂が再建され、文華殿が建設されました。

【萬福寺の開山とされる隠元隆琦】

隠元隆琦は1592年に徳竜の子として中国・福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれたと言われています。6歳の時に父が行方不明になり、10歳の時に仏教に発心したとも言われています。21歳の時に旅に出て、舟山列島にある観音霊場・普陀に至って出家を志し、29歳の時に福建省の黄檗山万福寺で出家し、その後諸寺を訪れたと言われています。33歳の時に禅宗・臨済宗の密雲円悟に参禅し、42歳頃に兄弟子・費隠通容から印可を受けて嗣法し、146歳の時に黄檗山の住持に招請されました。1652年(承応元年)から長崎・興福寺の逸然性融らが長崎・崇福寺の住持に懇請し、1654年(承応3年)に3年間の約束で一行30名とともに長崎に来日し、1655年(明暦元年)に崇福寺に移り、その後摂津嶋上の普門寺に移りました。1658年(万治元年)に江戸に赴いて江戸幕府4代将軍・徳川家綱と謁見し、1659年(万治3年)に大老・酒井忠勝らの勧めで永住を決意し、1660年(万治3年)に山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、1661年(寛文元年)に萬福寺を創建しました。その後隠退し、1673年(寛文13年)に亡くなりました。

【萬福寺 備考】
*参考・・・萬福寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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