萬福寺開山堂・萬福寺見どころ(修学旅行・観光)

萬福寺開山堂

●萬福寺開山堂は1965年(昭和40年)5月29日に国の重要文化財に指定されました。
●萬福寺開山堂は江戸時代中期の1675年(延宝3年)に建立されました。開山堂は隠元禅師像を安置しています。開山堂では毎月1日・15日に山内の僧が祝拝し、3日に開山忌が営まれています。祥忌の4月3日には他山の僧を招待して厳粛に営まれています。
隠元禅師像は1663年(寛文3年)に清(中国)の仏師・范道生(はんどうせい)が造仏しました。隠元禅師像は隠元禅師の70歳の古希(こき)を祝って造仏された寿像です。隠元禅師像は実物の毛髪・髭(ひげ)が植えられ、しわなども克明に彫られた写実的な像です。隠元禅師像は像高約161.7センチの木造です。なお隠元禅師像は当初白払子(ほっす)を手にしていたが、現在は失われています。
隠元隆琦は1592年(万暦20年・文禄元年)12月7日に父・徳竜の子として中国・福建省に生まれたと言われています。6歳の時に父が行方不明になり、10歳の時に仏教に発心したとも言われています。21歳の時に旅に出て、観音霊場・普陀山(ふださん)に至って出家を志し、29歳の時に福建省の黄檗山(おうばくさん)万福寺(まんぷくじ)で出家し、その後諸寺を訪れて「法華経」などの講説を聴聞したと言われています。33歳の時に臨済宗(りんざいしゅう)の密雲円悟(みつうんえんご)に参禅し、42歳頃に兄弟子・費隠通容(ひいんつうよう)から印可(いんか)を受け、1637年(崇禎10年)の46歳の時に黄檗山の住持(じゅうじ)に招請され、その後住持を退席したが、1646年(順治3年)に再度住持になりました。1652年(承応元年)から長崎・興福寺(こうふくじ)の逸然性融(いつねんしょうゆう)らが長崎・崇福寺(そうふくじ)の住持に懇請し、1654年(承応3年)に3年間の約束で長崎に来日し、1655年(明暦元年)に崇福寺に移り、その後摂津(大阪府高槻市)の普門寺(ふもんじ)に移りました。1658年(万治元年)に江戸で江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)と謁見し、1659年(万治3年)に酒井忠勝(さかいただかつ)らの勧めで永住を決意し、1660年(万治3年)に山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、1661年(寛文元年)に黄檗山萬福寺が創建されました。隠元隆琦は煎茶道の開祖とされ、木庵性とう(もくあんしょうとう)・即非如一(そくひにょいつ)とともに「黄檗の三筆」と称されています。また隠元豆の由来にもなっています。なお隠元隆琦は1673年(寛文13年)5月19日に亡くなりました。
●萬福寺開山堂は桁行三間・梁間一間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。開山堂は一重裳階(もこし)付きで、一見2階建てに見えます。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。白鳳時代に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
萬福寺見どころ

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