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萬福寺三門・萬福寺見所(修学旅行・観光)
萬福寺三門
●萬福寺三門は1913年(大正2年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●萬福寺三門は江戸時代中期の1680年(延宝6年)に建立されました。三門は大棟中央に火えん(かえん)付きの宝珠(ほうじゅ)があり、正面に隠元隆琦筆による額「黄檗山」・「萬福寺」が掛けられています。なお三門は入ると脱俗の清浄域とされています。
一般的に三門(山門)は一切は空と悟る空門・一切の執着を離れた無相門・一切の願求の念を捨てる無願門の三境地を経て、仏国土に至る門・三解脱門のことです。三門は寺院の正門で、禅宗七堂伽藍(山門・本尊を安置する仏殿(金堂)・僧侶が仏教を講義する法堂・坐禅など仏道修行に励む僧堂・僧侶が居住する庫裏・トイレである東司・浴室である浴室)に数えられています。なお山門は本来山上に建てられた寺院の門のことを言っていたが、現在は平地に建てられた寺院の門のことも言います。
隠元隆琦は1592年(万暦20年・文禄元年)12月7日に父・徳竜の子として中国・福建省に生まれたと言われています。6歳の時に父が行方不明になり、10歳の時に仏教に発心したとも言われています。21歳の時に旅に出て、観音霊場・普陀山に至って出家を志し、29歳の時に福建省の黄檗山万福寺で出家し、その後諸寺を訪れて「法華経」などの講説を聴聞したと言われています。33歳の時に臨済宗の密雲円悟に参禅し、42歳頃に兄弟子・費隠通容から印可を受け、1637年(崇禎10年)の46歳の時に黄檗山の住持(住職)に招請され、その後住持を退席したが、1646年(順治3年)に再度住持になりました。1652年(承応元年)から長崎・興福寺の逸然性融らが長崎・崇福寺の住持に懇請し、1654年(承応3年)に3年間の約束で長崎に来日し、1655年(明暦元年)に崇福寺に移り、その後摂津(大阪府高槻市)の普門寺に移りました。1658年(万治元年)に江戸で江戸幕府4代将軍・徳川家綱と謁見し、1659年(万治3年)に酒井忠勝らの勧めで永住を決意し、1660年(万治3年)に山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、1661年(寛文元年)に黄檗山萬福寺が創建されましたなお隠元隆琦は1673年(寛文13年)5月19日に亡くなりました。
●萬福寺三門は三間三戸(さんげんさんこ)二階二重門(にかいにじゅうもん)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。三門は左右に裳階(もこし)・山廊があります。山廊は桁行二間・梁間一間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。白鳳時代に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮・出雲大社などの社殿に採用されています。
萬福寺見どころ