萬福寺総門・萬福寺見どころ(修学旅行・観光)

萬福寺総門

●萬福寺総門は1913年(大正2年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●萬福寺総門は江戸時代中期の1688年(延宝6年)に建立されました。総門には萬福寺第5代・高泉性とん(こうせんしょうとん)筆による額「第一義」が掛けられています。高泉性とんは何度も書き改められたという逸話が残されています。
高泉性とんは江戸時代前期に当たる1633年(崇禎6年)11月9日に中国福州(福建省)福清県に生まれました。父は林茂高、母は趙氏とも言われています。13歳の時に父母が亡くなると叔父・無住がいる黄檗山万福寺に赴き、亘信行弥(こうしんぎょうみ)のもとで出家し、翌1646年(順治3年)に隠元隆琦(いんげんりゅうき)が2度目となる万福寺の住持(じゅうじ)になると隠元隆琦の弟子・慧門如沛(えもんにょふつ)に師事しました。1654年(順治11年)に隠元隆琦が渡日すると慧門如沛が万福寺の住持になり、その後慧門如沛の法を嗣ぎました。1661年(順治18年)に隠元隆琦の70歳の古希(こき)を祝う為、慧門如沛に代わり、暁堂・未発・柏巌・惟一とともに来日し、長崎・崇福寺(そうふくじ)に入って即非如一(そくひにょいち)を訪ね、その後京都宇治の萬福寺(まんぷくじ)に入りました。1663年(寛文3年)12月に萬福寺初の授戒会(じゅかいえ)で引請阿闍梨(いんじょうあじゃり)を務め、1665年(寛文5年)に陸奥二本松藩初代藩主・丹羽光重(にわみつしげ)に招請されて法雲院(ほううんいん)の住持になったが、一緒に来日した暁堂が亡くなると萬福寺に戻りました。1669年(寛文9年)に萬福寺の山内に法苑院(ほうおんいん)を建立して住し、1673年(寛文13年)に隠元隆琦が亡くなると100日間に渡って棺側に従いました。1675年(延宝3年)に加賀藩4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)に招請されて献珠寺(けんじゅじ)の開山になり、1678年(延宝6年)に弟子・雷洲が創建した伏見の仏国寺(ぶっこくじ)の開山になりました。1692年(元禄5年)に萬福寺第4代・独湛性瑩(どくたんしょうえいが)が隠退すると萬福寺第5代になりました。1695年(元禄8年)に隠元隆琦が国師号・大光普照国師(ふしょうこくし)を賜り、江戸に上って江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に拝礼して説法を行なったが、その後体調を崩して萬福寺に戻りました。高泉性とんは「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)・1322年(元亨2年)上程」以来、300余年に渡って高僧伝が編纂されていなかったことから1675年(延宝3年)に「扶桑禅林僧宝伝(ふそうぜんりんそうほうでん)10巻」を記しました。なお高泉性とんは1695年(元禄8年)11月22日に亡くなりました。
●萬福寺総門は桁行三間・梁間二間で、切妻造(きりづまづくり)段違の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。総門は中央が高く、左右が一段低くい中国門の牌楼(ぱいろう)式で、漢門とも言われています。ちなみに中央上部裏面には円相が型取られています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
萬福寺見どころ

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