曼殊院庫裏・曼殊院見所(修学旅行・観光)

曼殊院庫裏

●曼殊院庫裏は1976年(昭和51年)5月20日に国の重要文化財に指定されました。
●曼殊院庫裏は江戸時代前期の1656年(明暦2年)に建立されました。庫裏は1991年(平成3年)~1996年(平成8年)に解体修理が行われ、その際の痕跡調査などにより、曼殊院が門跡・良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう)によって京都御所近くに移転していた時代に護摩堂として建立され、1656年(明暦2年)に現在の場所に移った際に玄関などとともに移され、庫裏に改造されたと言われています。また部材に残されている刻印から護摩堂の前身となる建物があったと言われています。庫裏は下台所と言われ、江戸時代前期の明暦年間(1655年~1658年)にこの地に建立された上台所と対をなしていました。庫裏は禅宗寺院の庫裏のように切妻造(きりづまづくり)ではなく、入母屋造(いりもやづくり)で護摩堂の形式が引き継がれています。庫裏には内部に大きな竈が7口設けています。
一般的に庫裏は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏殿・三門(山門)・僧堂・法堂(はっとう)・浴室・東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
良尚入道親王は江戸時代前期の1623年(元和8年)に八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)と丹後国宮津藩主・京極高知(きょうごくたかとも)の娘・常照院(じょうしょういん)の第2子として生まれました。1627年(寛永4年)に曼殊院に入り、1632年(寛永9年)に第108代・後水尾天皇の猶子となり、1634年(寛永11年)8月に親王宣下を受け、同年9月に得度しました。1646年(正保3年)に第175世天台座主になり、1656年(明暦2年)に曼殊院を洛北一乗寺村に移して伽藍を整備し、1681年(天和元年)に曼殊院第29世門跡になり、竹之内門跡と称されました。1687年(貞享4年)に曼殊院を退院して天松院と号し、1693年(元禄6年)に亡くなりました。良尚入道親王は絵を狩野尚信に学び、池坊華道を納め、書・詩文・茶にも堪能な文化人でした。
●曼殊院庫裏は桁行約15.9メートル・梁間約12.3メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。庫裏には正面に唐破風(からはふ)が付けられ、曼殊院の門跡・良尚入道親王の筆の額「媚竈(びそう)」が掲げられています。「媚竈」には竈で働く人を大事にしなさいという意味があるそうです。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
曼殊院

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