万灯会(まんとうえ)・織田信長(おだのぶなが)と五山送り火
万灯会・織田信長と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は戦国時代(1493年~1590年)に行われた万灯会が変化したものとも言われています。1581年(天正9年)7月15日には織田信長が万灯会を行ないました。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【万灯会(まんとうえ)・織田信長(おだのぶなが)】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は戦国時代(1493年~1590年)に盛んに行われた万灯会(まんとうえ)が山の山腹に点火され、お盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))の大規模な精霊送りに変化していたとも言われています。ちなみに万灯会は飛鳥時代(592年~710年)後期の651年(白雉2年)に宮廷で行われたのが初例とされています。安土桃山時代(1573年~1603年)の1581年(天正9年)7月15日の盂蘭盆会の夜には織田信長が万灯会を行ないました。「信長公記(しんちょうこうき)」には「七月十五日、安土御殿主ならびに惣見寺に挑灯余多つるせられ、御馬廻之人ゝ新道江之中に舟を浮かべ手ゝに讀松とぼし申され、山下かゞやき水に移りて、言語道断、面白き有様、見物群衆に候なり。」と記され、安土城の天主(御殿)と城内の臨済宗・遠景山摠見寺(そうけんじ)にたくさんの提灯が吊るされ、入江に浮かばせた舟に松明が灯され、その輝きが水面に映し出され、言葉では言い表せないほどの美しさで、見物人がたくさん集まったそうです。織田信長は1580年(天正8年)に来日し、安土城で織田信長に拝謁したイエズス会の巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノの出立を1日遅らせて盂蘭盆会に招きました。ルイス・フロイスが記した「日本史」には織田信長が家臣に家で提灯などを灯さないように命じ、織田信長だけが安土城に色とりどりの灯し、高くそびえる七層の天守閣を持つ安土城に灯されている提灯はまるで空で燃えているように見え、美しいかったと記しています。
●織田信長は1534年(天文3年)6月23日に織田信秀と土田御前の間に生まれました。1551年(天文20年)に父が亡くなると家督を継ぎ、1555年(弘治元年)に織田信友を討って清洲城を居城とし、1557年(弘治3年)に弟を排除し、1559年(永禄2年)に織田信賢を追放して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦で今川義元を敗死させ、1562年(永禄5年)に徳川家康と同盟を結びます。1567年(永禄10年)に斎藤龍興を滅ぼすと美濃国も領することになりました。1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、1571年(元亀2年)に足利義昭に内通していた比叡山を焼き打ちし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放し、朝倉氏・浅井氏も滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦いで武田勝頼を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城しました。なお織田信長は1582年(天正10年)6月21日に本能寺の変で自刃しました。
●安土城は1576年(天正4年)1月に織田信長が丹羽長秀を総普請奉行として、近江国守護・六角氏の居城・観音寺城(近江八幡市)の支城・安土山に築城を開始し、1579年(天正7年)5月頃に完成して織田信長が稲葉山城から移り住みました。安土城には五層七重(地上6階・地下1階)の天守閣が建てられ、本丸・二の丸を中心に家臣の屋敷がそれぞれ一つの曲輪になっていました。ただその後ルイス・フロイスが記した「日本史」によると本丸が落雷で焼失したと言われています。1582年(天正10年)5月15日に明智光秀を饗応役として、徳川家康の接待が行われました。6月2日に明智光秀が本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃して自刃させた本能寺の変が起こり、留守居役・蒲生賢秀は本拠地である日野城(蒲生郡日野町)に織田信長の妻子などを避難させました。6月5日に明智光秀が安土を占領し、6月8日に一度坂本に戻ったが、6月9日に公家衆の出迎えを受けて京都に入りしました。6月13日に明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、その後6月15日頃に安土城の天主・本丸などが焼失したと言われています。なお本能寺の変後も織田信長の嫡孫・織田秀信が二の丸を使用していたと言われるが、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の養子・豊臣秀次の八幡山城(近江八幡市)を築城すると廃城になったと言われています。
【万灯会・織田信長と五山送り火 備考】
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