葵祭と明治天皇・岩倉具視

葵祭(Aoi Matsuri Festival)

葵祭と明治天皇・岩倉具視

葵祭は1883年(明治16年)に第122代・明治天皇の旧儀復興の勅命により、岩倉具視が葵祭(賀茂祭)旧儀再興を提言し、翌1884年(明治17年)にともに日本三勅祭に数えられた春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに旧儀が復興されました。

★葵祭2025の最新情報

【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

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【葵祭と明治天皇・岩倉具視】
葵祭は1883年(明治16年)に第122代・明治天皇(めいじてんのう)の旧儀復興の勅命により、岩倉具視(いわくらともみ)が葵祭(賀茂祭)旧儀再興を提言し、翌1884年(明治17年)に旧儀が復興されました。葵祭は欽明天皇の時代(539年~571年)に始まり、平安時代初期に勅祭になり、平安時代中期に祭りと言うと葵祭を指すほど隆盛したが、鎌倉時代以降に徐々に衰微し、室町時代中期に約10年続いた応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後に途絶えました。葵祭は江戸時代後期の1694年(元禄7年)に約200年振りに復興され、1870年(明治3年)まで続いたが、往時の盛儀を復興させることは困難でした。葵祭は明治維新後の東京遷都や神祇制度の改変などにより、1871年(明治4年)から1883年(明治16年)まで暫く中絶され、単に奉幣使(ほうへいし)のみのが上賀茂神社・下鴨神社に参向していました。近衛使(このえし)が廃止され、京都留居官が奉幣使(宣命使)として派遣され、宮中の祭祀から神祇官の祭祀に変わりました。しかし1883年(明治16年)に第122代・明治天皇の旧儀復興の勅命により、岩倉具視が葵祭(賀茂祭)旧儀再興を提言し、葵祭は翌1884年(明治17年)にともに日本三勅祭に数えられた春日大社(かすがたいしゃ)の春日祭・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の石清水祭とともに旧儀が復興されました。ちなみに岩倉具視は1877年(明治10年)に葵祭の時代行列の出発地点になっている京都御所・京都御苑について、旧慣保存の為に御所の保存を建議し、京都御苑が現在のように整備されました。

【第122代・明治天皇 葵祭】
第122代・明治天皇は1852年(嘉永5年)11月3日に第121代・孝明天皇と典侍・中山慶子の間に生まれ、孝明天皇の第2皇子でした。1860年(万延元年)8月に皇太子になり、同年11月に親王宣下を受けました。1864年(元治元年)に長州藩による禁門の変が起き、宮中に不審者が侵入すると一時卒倒し、長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居になりました。1867年(慶応2年)に父が崩御すると14歳で第122代・明治天皇に即位しました。同年朝廷は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の大政奉還の上表に勅許を与え、薩摩藩・長州藩に討幕の密勅を下しました。その後王政復古の大号令を発し、新政府樹立が宣言されました。1868年(慶応4年)からの戊辰戦争では小松宮彰仁親王を征討大将軍に任命し、幕府軍を鎮圧しました。1868年(明治元年)に五箇条の御誓文を発布し、新政府の基本方針を表明し、明治に改元して一世一元の制を定めました。1869年(明治2年)に東京に遷都し、版籍奉還の上表を勅許し、1871年(明治4年)に廃藩置県を断行しました。1882年(明治15年)に陸海軍を天皇の軍隊と規定して軍人勅諭を発し、1884年(明治17年)以降に立憲制・官僚制に対応する諸体系を整備し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を公布し、1890年(明治23年)に教育勅語を発しました。1894年(明治27年)からの日清戦争・1904年(明治37年)からの日露戦争で直接戦争を指導しました。なお第122代・明治天皇は1912年(明治45年)7月30日に亡くなりました。

【岩倉具視 葵祭】
岩倉具視は1825年(文政8年)10月26日に参議・堀河康親と勧修寺経逸の娘・吉子の次男として生まれました。1838年(天保9年)8月に公卿・岩倉具慶の養子になり、同年12月に元服して昇殿を許されました。1854年(安政元年)に第121代・孝明天皇の侍従になり、1858年(安政5年)に日米修好通商条約に反対しました。その後孝明天皇の妹・和宮を将軍家(江戸幕府14代将軍・徳川家茂)に降嫁させる公武合体を推進したことから佐幕派と見られるようになり、1862年(文久2年)の攘夷運動の高まりによって蟄居処分が下され、辞官して出家し、洛北岩倉に移りました。岩倉具視は尊攘派から久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子とともに四奸二嬪に数えられました。1867年(慶応3年)に大久保利通らとともに王政復古を画策し、処分が解除されました。明治維新後に新政府の中心人物になって要職を歴任し、1871年(明治4年)から条約改正の特命全権大使として欧米(岩倉使節団)を視察し、1873年(明治6年)に帰国して征韓論に反対しました。岩倉具視は天皇制による立憲制確立の為に自由民権運動などを弾圧し、欽定憲法の原則を起草させました。また銀行や日本鉄道会社を設立して華族の地位擁護にも務めました。なお岩倉具視は1883年(明治16年)7月20日に亡くなりました。

【葵祭と明治天皇・岩倉具視 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

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