藤原道長(ふじわらのみちなが)の「御堂関白記」と祇園祭

藤原道長の「御堂関白記」と祇園祭

藤原道長は平安時代中期に子・藤原頼通とともに摂関政治の全盛期を築き、日記「御堂関白記」には政務・朝廷の儀式などが記されています。また「御堂関白記」には当時全盛期を迎えていた葵祭や祇園祭などの祭礼も記されています。「本朝世紀」には雑芸者・無骨が作山を制作して引き回し、藤原道長が停止と検非違使に追捕を命じたことも記されています。

【祇園祭2027 日程】
祇園祭2027は2027年(令和9年)7月1日(木曜日)の吉符入から2027年(令和9年)7月31日(土曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2027日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【藤原道長(ふじわらのみちなが)の「御堂関白記(みどうかんぱくき)」】
関白・藤原道長は平安時代(794年~1185年)中期に子・藤原頼通(ふじわらのよりみち)とともに摂関政治(摂政・関白)の全盛期を築き、日記「御堂関白記」には政務・朝廷の儀式(朝儀)などが記されています。また「御堂関白記」には当時全盛期を迎えていた葵祭(賀茂祭)や祇園祭(祇園会)などの祭礼も記されています。「本朝世紀(ほんちょうせいき)」には雑芸者・無骨が山鉾の起源・原型とも言われる作山を制作して引き回し、藤原道長が無骨の行為に驚いて停止と検非違使(けびいし)に追捕を命じたことも記されています。「御堂関白記」は自由奔放に書かれ、誤字・脱字・当て字などが多く、「御堂御日記」・「入道殿御暦」・「法成寺入道左大臣記」などとも言われています。
「御堂関白記」1013年(長和2年)6月15日の条に「十五日庚子。天晴。今日祇園会(祇園祭)也。早旦太后宮(藤原彰子)春宮(敦成親王・後一条天皇)御東三条院西北角新造二階楼見会。予(藤原道長)亦参同見。前栽体世無比類。諸公卿或居階下、或在門外車見。馬長依例渡。但左右衛門府馬長新調装束極風流也。其外散楽・乞胸・芝居等雑芸、各尽奇巧於前庭。競馬。終日御覧、至暮還御。予奉御車於太后宮。入夜諸人皆相率、随身参詣祇園社(八坂神社)。神輿供奉雑人成山、塞路不可通。天下盛事、足目見。」と記され、藤原道長が長女で、一条天皇の中宮・藤原彰子(ふじわらのしょうし)や一条天皇と藤原彰子の間に生まれた敦成親王(あつひろしんのう・後一条天皇(ごいちじょうてんのう))と祇園祭を見物したことが分かります。東三条院の西北角に新しく造られた2階建ての楼閣から見物しました。庭園の美しさは世に並ぶものがないほどだった。公卿の中には階下に座ったり、門外の牛車から見物したりする者もいた。小舎人童(こどねりわらわ)を美しく着飾って馬に乗せた馬長(うまおさ)は例年通りに過ぎていった。ただ左右衛門府の馬長が新調した装束は本当に風流で見事だった。それ以外にも散楽(さんがく・軽業)・乞胸(ごうむね・大道芸人)・芝居などの様々な芸能者が奇抜な趣向を尽くし、前庭で馬を走らせて芸を披露しました。一日中見物し、夕方に藤原彰子らが帰った。藤原道長は藤原彰子の牛車を見送った。夜になると人々は護衛の随身(ずいしん)を引き連れて八坂神社に参詣した。神輿に供奉する人々や見物人が山のようになり、道を塞いで通り抜けることができないほどだった。天下の盛大なる祇園祭は本当に見応えのあるものだった。平安時代中期に清少納言(せいしょうなごん)が記した「枕草子(まくらのそうし)」には「心ちよげなるもの卯杖のほうし。神楽の人長。池の蓮の村雨にあひたる。御霊会(祇園祭)の馬長。また、御霊会のふりはた取り持たる者。」と記され、祇園祭に本格的な山鉾が登場するまでは馬長が見所だったことが分かります。また祇園祭には人目を驚かす為に華美な趣向を凝らした風流が登場していたことも分かります。
「御堂関白記」には同年4月24日に藤原道長が葵祭の路頭の儀(ろとうのぎ)を一条天皇と藤原彰子の間に生まれた敦良親王(あつながしんのう・後朱雀天皇(ごすざくてんのう))と桟敷で一緒に見物したことが記されています。また同年4月25日に藤原道長が葵祭の斎王還立の儀(かえりだちのぎ)を一条天皇と藤原彰子の間に生まれた敦成親王と一緒の牛車で見物したことが記されています。天皇の皇子は母方で養育されていたことから祇園祭や葵祭の見物を通して、外戚として政治的立場の強化に繋がっていると窺えます。
藤原道長は長女・藤原彰子を第66代・一条天皇、次女・藤原妍子(ふじわらのけんし)を第67代・三条天皇、三女・藤原威子(ふじわらのいし)を第68代・後一条天皇に入内させて一家三后と驚嘆され、和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」と詠み、我が世の春を迎えました。

●藤原道長は966年(康保3年)に藤原兼家の子として生まれました。祖父・藤原師輔は娘・藤原安子が冷泉天皇・円融天皇を産み、外戚として権力を握りました。970年(天禄元年)に藤原実頼が亡くなると父とその兄・藤原兼通が争い、藤原兼通が関白になると不遇になりました。しかし979年(天元元年)に父が右大臣になり、次女藤原・詮子が円融天皇の女御になり、980年(天元3年)に懐仁親王(一条天皇)を産みました。986年(寛和2年)に花山天皇を出家させ、懐仁親王が即位すると父が摂政になり、988年(永延2年)に参議を経ずに権中納言になりました。990年(正暦元年)に父が亡くなり、その後兄の藤原道隆・藤原道兼も亡くなると藤原道隆の子・藤原伊周と争って勝ちました。999年(長保元年)に長女・藤原彰子を一条天皇に入内させ、1012年(長和元年)に次女・藤原妍子を三条天皇に入内させ、三条天皇と対立すると退位に追い込み、1016年(長和5年)に長女・彰子が産んだ後一条天皇を即位させ、1017年(寛仁元年)に子・藤原頼通に摂政を譲りました。1018年(寛仁2年)に三女・藤原威子を後一条天皇に入内させました。なお藤原道長は1028年(万寿4年)に亡くなりました。

【藤原道長の「御堂関白記」と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2027日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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