太政大臣・藤原師実(ふじわらのもろざね)と祇園祭
太政大臣・藤原師実と祇園祭
祇園祭では還幸が旧暦6月14日に行われ、翌6月15日に関白・摂政や公家などが八坂神社に参拝した記録が残されています。藤原師実は祖父・藤原道長以来の天皇の外祖父になり、御堂流の権勢を再興しました。藤原師実は子・藤原師通の「後二条師通記」に祖父・藤原道長と父・藤原頼通が行った摂関祇園詣の再興を相談したことが記されています。
【祇園祭2027 日程】
祇園祭2027は2027年(令和9年)7月1日(木曜日)の吉符入から2027年(令和9年)7月31日(土曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2027日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【太政大臣・藤原師実(ふじわらのもろざね)】
祇園祭では還幸(かんこう・祇園会(ぎおんえ))が旧暦6月14日に行われ、翌6月15日に関白・摂政や公家などが八坂神社(祇園社)に参拝した記録が残されています。太政大臣・藤原師実は祖父・藤原道長(ふじわらのみちなが)以来の天皇の外祖父になり、御堂流の権勢を再興しました。御堂流は御堂関白(みどうかんぱく)とも言われた藤原道長の家系です。藤原師実は藤原道長と同じように6月15日に八坂神社に参拝し、その子・藤原師通(ふじわらのもろみち)の日記「後二条師通記(ごにじょうもろみちき)」に記録が残されています。ちなみに第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)は975年(天延3年)6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉納し、6月15日に祇園臨時祭が行われるようになったと言われています。ただ恒例化することはなかったそうです。なお葵祭では旧暦4月の2番目の酉(とり)の日に行われていた葵祭の前日に摂政・関白が賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に参詣する摂政関白の賀茂詣が行われていました。
藤原道長は度々6月15日に八坂神社に参拝した記録が残されています。1004年(寛弘元年)・1013年(長和2年)は八坂神社に参詣し、いずれも神馬・十列を奉納しました。また1018年(寛仁2年)には嫡子・藤原頼通(ふじわらのよりみち)とともに八坂神社に参拝し、金銀の幣・例幣とともに神馬・十列を奉納しました。藤原道長は20回ほど賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に参拝した記録が残され、その次に参拝記録が多いのは八坂神社です。
「後二条師通記」1091年(寛治5年)6月4日の条に「自殿下御使盛長朝臣来云、祇園御諸事被仰云、御堂(藤原道長)御時二度所令参御也、最初旅者宇治殿(藤原頼通)不参給者、長斎精進間歟、後之旅為摂政殿御共参御云々、予被参歟如何、先例乗尻十列、但可召衛々人等歟、又如先例可候歟、院乗尻可然衛々件院為乗尻、但近衛人可候歟、殿上人如何、毎事跪以謹承了、予如只今所参也、先年御願也、早可候者、舞人事御定也、如先例且随御願可被行之、世間忿々何有憚哉、宜以茲旨啓洩給、」と記され、藤原頼通の六男で、関白・藤原師実(ふじわらのもろざね)が子・藤原師通に使いの盛長を遣わし、6月15日の八坂神社参拝を相談したことが分かります。藤原師実は祖父・藤原道長と父・藤原頼通の親子のように八坂神社参拝を再興しようとしました。藤原道長は2度八坂神社に参拝し、1回目は子・藤原頼通を伴わずに単独で、2回目は子・藤原頼通とともに参拝しました。藤原道長は十列を奉納しました。
「後二条師通記」1091年(寛治5年)6月15日の条に「西対御装束如賀茂詣女房不出衣」などと記され、八坂神社参拝は摂政関白の賀茂詣と同じように盛大なものだったそうです。三条から八坂神社まで騎馬・舞人の行列が渡御し、八坂神社到着後にお祓いが行われ、神馬が3度引き回され、東遊(あずまあそび)などが舞われました。なお藤原師実は1096年(永長元年)6月15日に藤原師通とともに八坂神社に参拝し、子・藤原頼通は亡くなる直前の1099年(康和元年)6月15日に八坂神社に神馬を奉納しました。
●藤原師実は長久3年(1042年)に関白・藤原頼通と藤原祇子の間に頼通の六男として生まれました。祇子が生んだ男子は頼通の正室・隆姫女王と嫡男・通房への配慮から養子に出されていたが、通房が亡くなると末子ながら摂関家の後継者になりました。1053年(天喜元年)に元服して正五位下に叙され、1054年(天喜2年)に侍従に任じられ、その後左近衛権中将・近江権守・権中納言・権大納言・左近衛中将・内大臣・左近衛大将などを歴任しました。1059年(康平2年)に従姉・源麗子と結婚しました。ちなみに妻・麗子の姪・藤原賢子を養女として東宮(白河天皇)の妃に入れ、1079年(承暦3年)に賢子は善仁親王(堀河天皇)を産みました。1065年(康平8年)に従一位・右大臣に叙任され、1069年(治暦5年)に左大臣になり、1075年(承保2年)に叔父・藤原教通が亡くなると関白・藤氏長者になりました。藤原教通と子・藤原信長との間に摂関・藤氏長者を巡る対立がありました。1094年(嘉保元年)に嫡子・藤原師通に関白を譲り、1099年(承徳3年)に藤原師通が亡くなるとその子で、孫・藤原忠実を後見しました。1101年(康和3年)1月に病気になり、出家して法名「法覚」と称しました。藤原師実は有職故実・詩歌・音楽・書に通じ、仏教を篤く信仰しました。日記に「京極関白記」・歌集に「京極前関白集」が残されています。藤原師実は京極殿・宇治別荘に住し、京極大殿・後宇治殿とも言われました。なお藤原師実は1101年(康和3年)3月14日に亡くなりました。
【太政大臣・藤原師実と祇園祭 備考】
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祇園祭2027日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)
















