祇園祭と太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな)

祇園祭と太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな)

祇園祭は869年(貞観11年)に牛頭天王の祟りが原因とされたのが起源だが、877年(元慶元年)に藤原基経が邸宅を寄進して牛頭天王を祀る社壇を建立したと言われています。藤原基経は863年(貞観5年)の御霊会に天皇の勅によって遣わされました。

【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【祇園祭と太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな)】
祇園祭は869年(貞観11年)に牛頭天王(ごずてんのう)の祟りが原因とされたのが起源だが、877年(元慶元年)に太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな)が邸宅を寄進して牛頭天王を祀る社壇を建立し、感神院(かんしんいん)と称したとも言われています。「二十二社註式(にじゅうにしゃちゅうしき )」に「故常住寺十禅師伝燈大法師位円如。去貞観年中(859年~877年)奉為建立也。或云。昔常住寺十禅師円如大法師。依託宣。第五十六代清和天皇貞観十八年(876年)、奉移山城国愛宕郡八坂郷樹下。其後藤原昭宣(藤原基経)公。感威験。壊運台宇一建立精舎。今社檀是也。」と記され、八坂神社は貞観年間(859年~877年)に常住寺十禅師の円如が建立したとも、876年(貞観18年)に円如が託宣によって移して祀り、その後藤原基経が威験を感じて邸宅を壊して運んで精舎を建立したとも言われています。
藤原基経は「三代実録(さんだいじつろく)」863年(貞観5年)5月20日の条に「廿日壬午。於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経。右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等。監会事。王公卿士趣集共観。霊座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修。延律師慧達為講師。演説金光明経一部。般若心経六巻。命雅楽寮伶人作楽。以帝近侍児童及良家稚子為舞人。大唐高麗更出而舞。雑伎散楽競尽其能。此日宣旨。開苑四門。聴都邑人出入縦観。所謂御霊者。崇道天皇。伊予親王。藤原夫人。及観察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。寃魂成厲。近代以来。疫病繁発。死亡甚衆。天下以為。此災。御霊之所生也。始自京畿。爰及外国。毎至夏天秋節。修御霊会。往々不断。或礼仏説経。或歌且舞。令童貫之子粧馳射。膂力之士袒裼相撲。騎射呈藝。走馬争勝。倡優戯。逓相誇競。聚而観者莫不填咽。遐邇因循。漸成風俗。今茲春初咳逆成疫。百姓多斃。朝廷為祈。至是乃修此会。以賽宿祷也。」と記され、863年(貞観5年)に神泉苑(しんせんえん)で行われた御霊会に天皇の勅によって遣わされました。この863年(貞観5年)の御霊会は祇園祭の起源とされる869年(貞観11年)の祇園御霊会の前身とされ、政争などで非業の最期を遂げた者の怨霊を鎮める為、「金光明経(こんこうみょうきょう)」一部と「般若心経(はんにゃしんぎょう)」六巻が演説されたり、雅楽寮の伶人によって楽を演奏されました。また天皇に近侍する児童や良家の稚児によって舞を舞わせたり、大唐・高麗が雑技や散楽を競ったりしました。

【藤原基経 祇園祭】
藤原基経は836年(承和3年)に藤原長と藤原乙春の間に生まれ、藤原長良の三男でした。男子がいなかった叔父で、摂政・藤原良房の養子になりました。852年(仁寿元年)に皇太子であった第55代・文徳天皇が元服した際に加冠するの厚遇を受け、正六位上に叙されました。その後左兵衛尉・少納言・左近衛少将・蔵人頭・左近衛中将などを歴任し、貞観年間(859年~877年)に参議に任ぜられて公卿に列しました。866年(貞観8年)に応天門の変で政敵である伴善男を失脚させました。また同年に従三位に叙され、中納言になり、870年(貞観12年)に大納言になり、872年(貞観14年)に右大臣なり、養父・藤原良房が亡くなると実権を握りました。また同年に実妹・高子が第56代・清和天皇の第1皇子・貞明親王を生み、翌873年(貞観15年)に従二位に叙されました。876年(貞観18年)に清和天皇が譲位して貞明親王が第57代・陽成天皇に即位すると摂政に任じられ、880年(元慶4年)に太政大臣に任ぜられました。883年(元慶7年)頃に陽成天皇が元服すると不和になって出仕しないようになり、884年(元慶8年)に陽成天皇に代えて第58代・光孝天皇を即位させて事実上最初の関白になり、887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御すると第59代・宇多天皇を即位させて正式に関白の称号を得たが、その辞句を巡って阿衡事件が起こり、関白の権威を認めさせて藤原氏の摂関政治を確立しました。890年(寛平2年) に病気で関白を辞しました。藤原基経は「日本文徳天皇実録」を撰進しました。また藤原北家の権力を固めました。なお藤原基経は891年(寛平3年)2月24日に亡くなりました。

【祇園祭と太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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