祇園祭山鉾は雑芸者・無骨が制作した作山が起源

祇園祭山鉾

祇園祭山鉾は雑芸者・無骨と太政大臣・藤原道長と深いゆかりがあります。無骨が平安時代中期に制作した作山が山鉾の起源とも言われ、藤原道長は停止を命じ、無骨を捕らえようとしました。作山は天皇の即位の礼の直後に行う大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似ていました。

【祇園祭山鉾巡行 日程時間(要確認)】
●山鉾巡行(前祭)・・・例年7月17日
祇園祭山鉾巡行(前祭)
●山鉾巡行(後祭)・・・例年7月24日
祇園祭山鉾巡行(後祭)

祇園祭2022日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から例年6月14日に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来

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【祇園祭山鉾 雑芸者・無骨と太政大臣・藤原道長】
祇園祭山鉾は雑芸者・無骨(むこつ・无骨)と太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)と深いゆかりがあります。無骨が平安時代中期に制作した作山が山鉾の起源とも言われ、藤原道長は停止を命じ、無骨を捕らえようとしました。作山は天皇の即位の礼の直後に行う大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似ていました。標山は庭上に設けられた2基の作り山で、作り山にはめでたい祥瑞を表す様々な意匠が施されていました。なお祇園祭は平安時代前期の869年(貞観11年)に行われた御霊会(ごりょうえ)が起源と言われ、南北朝時代に大型の山鉾が現れたと言われています。藤原道長が禁止しなけらば、山鉾の歴史は変わっていたかもしれません。
鳥羽上皇(第74代・(とばてんのう))の命によって信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))が編纂した平安時代末期の歴史書「本朝世紀(ほんちょうせいき)」の999年(長保元年)6月14の条に「但今日祇園天神会也。而自去年。京有雑芸者。是則法師形也。世号謂無骨。実名者頼信。世間交仁安等者。件法師等為令京中之人見物。造村凝渡彼社頭。而如云々者。件村作法。宛如引大嘗会之標。仍左大臣令聞食此由。驚被下停止之宣旨。随召仰検非違使。奉此由。検非違使馳向彼無骨所。擬追捕之間。件無骨法師等在前問云々。逃去已了。爰検非違使空以還向。且令・申彼社頭無骨村停止之由。于時天神大忿怒。自礼盤祝師僧?落。即付辺下人作託宣云々。」此間。今夜亥剋許。従修理職内造木屋発火災。内裏悉以焼亡。午・後天皇乗腰輿。指左兵衛陣御出。経左衛門陣頭着職御曹司。幸間。左大臣乍騎馬自陽明門馳入。天皇御所馳対。下馬被奏云。職御曹司者是火末。御座有事恐歟。八省大極殿之間。可被行幸由奏了。「仍返向八省行大極殿之間可被行幸内奏了」仍返向八省行幸。暫逗留小安殿間。」と記されています。内容を要約すると無骨が八坂神社の社頭で、大嘗会の標山に似た作山を制作し、引き廻しました。藤原道長が驚いて停止と検非違使に追捕を命じたが、無骨は逃亡しました。そのことに八坂神社の祭神が怒り、その夜に内裏を全焼し、藤原道長は馬で駆け付け、第66代・一条天皇は御腰輿に乗り、大内裏の八省院小安殿にしばらく逗留しました。
また平安時代の公卿(くぎょう)・藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記「小右記(おうき)」の1013年(長和2年)6月14日の条に「六月十四日・甲戌、師光朝臣云、今日祇園御霊会、御輿後有散楽空車、而依左(藤原道長)大臣殿仰、雑人数多出来、打留散楽人、破損其衣裳、此間御輿停留不能追却、供奉人并見物者等称可有徴咎之由云、其後氷雨交降、雷電経剋、」と記されています。内容を要約すると藤原道長は神輿の後に尾根がなく、散楽(さんがく)を演じながら進む山車である散楽空車(うつくるま)を禁止し、雑人達が散楽人の衣裳を破り裂いたりしました。供奉する者や見物人も祟りを心配し、夏なのに氷雨が降り、雷電が走りました。
●無骨は本名を頼信という法師姿の雑芸者です。無骨は柔らかな身のこなしが名前の由来になったとも言われています。無骨は京都で評判を集めていました。
●藤原道長は966年(康保3年)に太政大臣・藤原兼家と藤原中正の娘・時姫の五男として生まれました。五男であったことや有力な兄2人(藤原道隆・藤原道兼)がいたことから目立つ存在ではなかったが、強弓・肝だめしなどの豪胆ぶりで知られていました。父・藤原兼家が摂政になって権力を握ると栄達し、990年(正暦元年)に正三位に叙せられました。同年7月に父・藤原兼家が亡くなり、995年(長徳元年)に兄・藤原道隆が大酒で亡くなり、その後直後に兄・藤原道兼も伝染病(はしか)で亡くなると藤原道隆の嫡男・藤原伊周と争って権力を掌握しました。藤原道長は長女・彰子を第66代・一条天皇、次女・妍子を第67代・三条天皇に入内させ、その後三条天皇と対立したが、長女・彰子の生んだ第68代・後一条天皇を即位させて摂政になり、その後1年ほどで摂政を嫡子・藤原頼通に譲りました。その後三女・威子を後一条天皇に入内させて一家三后と驚嘆させ、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」と和歌を詠んだと言われています。その後も六女・嬉子を第69代・後朱雀天皇に入内させました。藤原道長は関白に就任したことがないが、御堂関白とも言われ、日記「御堂関白記」が知られています。藤原道長は父・藤原兼家とともに摂関政治の全盛期を築きました。

【祇園祭山鉾 応仁の乱以前の山鉾】
山鉾はかつて毎年作られていたが、その後固定されるようになったと言われています。室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))以前には次のような山鉾がありました。その中には現在まで受け継がれている山鉾もあるが、廃絶した山鉾もあります。地名は山鉾が建てられていた場所を表わしています。
●前祭・・・長刀ほく=長刀鉾(四條東洞院)・かんこくほこ=函谷鉾(四條烏丸と室町間)・かつら男ほく=月鉾(四條室町と町(新町)間)・かんたかうふきぬ山(四條東洞院と高倉間)・こきやこはやし物=四条傘鉾(四條油少路と西洞院間)・あしかり山(四條いのくま)・まうそ山(錦少路萬里少路と高倉間)・いたてん山(錦小路東洞院と高倉間)・辨慶衣川山(錦烏丸と東洞院間)・天神山=霰天神山(錦町と室町間)・こかうのたい松山(錦西洞院と町間)・すみよし山=芦刈山(綾少路油少路と西洞院間)・地さうほく=伯牙山(綾小路町と西洞院間)・こはんり□山(五條高倉と高辻間)・花ぬす人山=保昌山(五条東洞院と高倉間)・うかひ舟山(四條高倉と綾小路間)・ひむろ山(綾少路萬里少路と高辻間)・あしかり山(錦少路東洞院)・はねつるへ山(四條東洞院と綾少路間)・まうそ山=孟宗山(錦少路烏丸と四條間)・花見の中将山(綾小路と四条間)・山ふしほく=山伏山(四條坊門むろ町)・菊水ほく=菊水鉾(錦少路と四條間)・庭とりほく=鶏鉾(綾少路室町と四條間)・はうかほく=放下鉾(錦少路町と四條間)・しんくくわうくうの舟=船鉾(四條と綾少路間)・岩戸山=岩戸山(五條坊門町と高辻間)・おかひき山(五条と高辻間)・かまきり山=蟷螂山(四條西洞院と錦少路間)・たるまほく(錦少路油少路)・太子ほく=太子山(五条坊門油小路と高辻間)(合計31基)
●後祭・・・すて物ほく(二条町と押小路間)・たいしほく(押小路と三条坊門前)・弓矢ほく(姉小路と三条間)・くけつのかい山(高辻いにくま)・甲ほく(所々のくら役)・八幡山=八幡山(三條町と六角間)・普陀落山=南観音山(錦小路町と四条坊門間)・しんくくわうゝ舟=大船鉾(四條と綾少路間)・やうゆう山=北観音山(三條烏丸と室町間)・すゝか山=鈴鹿山(三条烏丸と姉少路間)・鷹つかひ山=鷹山(三條室町と西洞院間)・山(三條西洞院と油少路間)・ふすま僧山(鷹つかさ猪熊兵衛と油小路間)・なすの與一山(五條坊門猪熊と高辻間)・うし若辨慶山=橋弁慶山(四條坊門烏丸と室町間)・しやうめう坊山=浄妙山(四条坊門烏丸町と室町間)・泉の小二郎山(二條室町と押少路間)・ゑんの行者山=役行者山(姉少路室町と三條間)・れうもんの瀧山=鯉山(三条町と六角間)・あさいなもん山(綾小路猪熊)・柳の六しゃく山(山四条高倉と綾)・西行山・じねんこし山・てんこ山・柴かり山・小原木の山・かさほく 大との房(合計27基)

【祇園祭山鉾 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2022日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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