妙法院大書院・妙法院見所(修学旅行・観光)

妙法院大書院

●妙法院大書院は1914年(大正3年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●妙法院大書院は江戸時代前期の1619年(元和5年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子)の女御御殿の建物として造営され、その後妙法院に移されました。妙法院大書院には狩野派によって描かれた襖絵などがあります。
東福門院(徳川和子(とくがわまさこ))は江戸時代前期の1607年(慶長12年)10月4日に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と正室・江(ごう)の五女として江戸城大奥で生まれました。江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)は第107代・後陽成天皇に孫娘・徳川和子の入内の内意を伝えたが、先例がないと許可しなかったが、再三の要求によって内諾しました。1612年(慶長17年)に第108代・後水尾天皇が即位し、1614年(慶長19年)に入内宣旨が出されました。しかし1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)の大坂の陣・1616年(元和2年)の徳川家康の死去・1617年(元和3年)の後陽成天皇の崩御が続いて延期され、1618年(元和4年)に女御御殿の造営が開始されたが、第108代・後水尾天皇寵愛の典侍・四辻与津子(お与津御寮人)が賀茂宮(かものみや)を生んだおよつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)が起こり、更に延期されました。その後1620年(元和6年)に14歳で入内し、1623年(元和9年)に興子内親王(第109代・明正天皇)を生みました。1624年(寛永元年)に中宮になり、1626年(寛永3年)に高仁親王、1627年(寛永4年)に男二宮を生んだが、立て続けに早世しました。1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)が起こると第108代・後水尾天皇が突然譲位し、興子内親王が第109代・明正天皇に即位し、東福門院の号を賜りました。東福門院は2皇子・5皇女を生み、江戸幕府と朝廷を献身的に繋いだと言われています。なお東福門院は 1678年(延宝6年)8月2日に亡くなりました。
東福門院の女御御殿は江戸時代前期の1618年(元和4年)から五味豊直(ごみとよなお)を御殿作事奉行として造営が開始されました。ちなみに1677年(延宝5年)に造営された東福門院の女院御所・奥対面所は夫である第108代・後水尾天皇が造営した修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の中御茶屋・客殿に移築されました。
●妙法院大書院は桁行五間・梁間六間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
妙法院見どころ

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