妙法院大庫裏・妙法院見どころ

妙法院大庫裏

●妙法院大庫裏は1914年(大正3年)4月17日に国の重要文化財、1957年(昭和32年)6月18日に国宝に指定されました。
●妙法院大庫裏は1595年(文禄4年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が先祖の菩提を弔う千僧供養(せんそうくよう)を行う為、安土桃山時代に建立したと言われています。千僧供養は1595年(文禄4年)に真言宗(しんごんしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)・律宗(りっしゅう)・禅宗(ぜんしゅう)・浄土宗(じょうどしゅう)・日蓮宗(にちれんしゅう)・時宗(じしゅう)・一向宗(いっこうしゅう)の八宗から800人の僧侶を招き、方広寺(ほうこうじ)の経堂(南北15間・東西21間)で行われ、その後も豊臣家滅亡まで毎月行われました。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
一般的に庫裏(庫裡・庫院)は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏像を安置して礼拝する仏殿・三解脱門(さんげだつもん)である三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
●妙法院大庫裏は桁行約21.8メートル・梁間約23.7メートル・高さ約18メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。妙法院大庫裏には唐破風(からはふ)の玄関一間があります。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
妙法院見どころ

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