妙心寺法堂・妙心寺見どころ

妙心寺法堂

●妙心寺法堂は1912年(明治45年)2月8日に国の重要文化財に指定されました。
●妙心寺法堂は江戸時代前期の1656年(明暦2年)に建立されました。内部のケヤキ(欅)の柱は標高約3,776メートルの富士山山麓から海路で運ばれてきたとも言われています。ケヤキの柱は原木を四つ割にし、丸く削られた高さ約8メートル・周囲2メートル弱です。妙心寺法堂は桁行五間・梁間四間で、入母屋造の本瓦葺です。なお妙心寺法堂は一重裳階(もこし)付きで、一見2階建てに見えます。
一般的に法堂は寺院で僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。法堂は禅宗寺院で用いられ、禅宗寺院以外では講堂(こうどう)と言われています。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や法隆寺(ほうりゅうじ)金堂と五重塔・薬師寺(やくしじ)の東塔が代表例です。白鳳時代(はくほうじだい)に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
●妙心寺法堂には鏡天井に絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が8年の歳月を費やして描いた雲龍図があります。
狩野探幽は江戸時代初期の1602年(慶長7年)に狩野永徳(かのうえいとく)の孫、狩野孝信(かのうたかのぶ)の子として京都で生まれました。4歳の時に自ら筆をとって描いたとも言われ、1612年(慶長17年)に江戸に下り、その途中の駿府で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に謁し、1617年(元和3年)に16歳で江戸幕府の御用絵師になりました。1621年(元和7年)に江戸城鍛冶橋門外の屋敷を本拠として、幕命によって日光・芝・上野の徳川家霊廟の装飾や江戸城の障壁画を制作しました。また大坂城・二条城・名古屋城・京都御所などの障壁画も制作しました。1623年(元和9年)に鍛冶橋狩野家を興し、1635年(寛永12年)に出家して探幽斎と称し、僧位・法眼(ほうげん)に叙せられ、1662年(寛文元年)に宮内卿法印(くないきょうほういん)になって狩野派の権威を不動のものとしました。狩野探幽は狩野派の大画様式に水墨画や大和絵などの技法を取り入れ、優美で、あか抜けた瀟洒(しょうしゃ)な様式に変えました。なお狩野探幽は1674年(延宝2年)に亡くなりました。
雲龍図は龍が仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)のひとつとされていることから法堂(はっとう)などの天井に描かれています。法堂は僧侶が経典の講義や説教などをする場で、雨を呼ぶ水神の龍が仏法の教えを雨のように降らすと言われています。また水神の龍が寺院を火から守るとの意味も込められていると言われています。なお八部衆は天(てん)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩ご羅伽(まごらが)です。
妙心寺見どころ

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