妙心寺浴室・妙心寺見どころ(修学旅行)

妙心寺浴室

●妙心寺浴室は1912年(明治45年)2月8日に国の重要文化財に指定されました。
●妙心寺浴室は江戸時代前期の1656年(明暦2年)に再建されました。妙心寺浴室はかつて安土桃山時代の1587年(天正15年)に明智光秀(あけちみつひで)の母方の叔父で、妙心寺の塔頭・大嶺院(だいりょういん)の密宗和尚(みっそうおしょう)が明智光秀の追善菩提の為に建立したと言われています。妙心寺浴室は明智風呂とも言われています。
密宗和尚は明智光秀の母方の叔父と言われています。ちなみに明智光秀の母はお牧の方(おまきのかた・於牧の方)とされ、お牧の方は若狭武田氏7代当主・武田信豊(たけだのぶとよ)の娘で、若狭武田氏8代当主・武田義統(たけだよしずみよしむね)の妹とも言われています。密宗和尚は妙心寺49世・東庵宗暾(とうあんしゅうとん)の弟子になり、安土桃山時代の1589年(天正17年)に東庵宗暾開山の衡陽院(こうよういん)を再興し、大嶺院に改称したと言われています。
明智光秀は戦国時代(室町時代後期)の1528年(享禄元年)に清和源氏・土岐氏(ときし)の支流・明智氏の一族として美濃明智庄で生まれたとも言われています。父は明智光綱(あけちみつつな)、母はお牧の方(おまきのかた・於牧の方)とされています。明智光秀は美濃の戦国大名・斎藤道三(さいとうどうさん)に仕え、その後越前の戦国大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えたと言われています。朝倉義景を頼った室町幕府第15代・足利義昭(あしかがよしあき)とともに織田信長(おだのぶなが)に赴き、織田信長の家臣になりました。明智光秀は細川幽斎(ほそかわゆうさい)とともに織田信長と足利義昭の間を取り持ち、足利義昭の上洛に尽力しました。1571年(元亀2年)に比叡山焼き討ちで武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡)を与えられ、坂本城を築城して城主になり、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称しました。1575年(天正3年)から丹波国攻略を開始し、1579年(天正7年)に丹波国を平定し、1580年(天正8年)に丹波一国を与えられ、横山城を改修して福知山城城主になりました。1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変(ほんのうじのへん)を起こし、織田信長を自害させました。しかし1582年(天正10年)6月13日に山崎の戦いで豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れ、落ち武者狩りで負傷して小栗栖(おぐるす)で自害しました。明智光秀は織田信長を討って天下人になってから僅か13日後に山崎の戦いで敗れて自害したことから「三日天下」とも言われています。
一般的に浴室は浴場のある建物です。古くから神道では川や滝で沐浴(もくよく)の一種である禊(みそぎ)が行われていました。飛鳥時代に仏教が伝来すると僧侶が沐浴する浴堂(湯堂)などが建立されました。ただ入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かし、蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。その後社寺などに参籠する大衆用の潔斎浴場(けっさいよくじょう)も別に建てられ、大湯屋と称しました。平安時代には上級の公家の屋敷内に蒸し風呂の浴堂が取り入れられるようになり、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」にも蒸し風呂の様子が記されています。ちなみに僧侶は潔斎の為に早くから湯を別の湯槽に入れて行水することもあったが、大衆は長く蒸し風呂形式で、江戸時代初期に湯に浸かる浸す方式になりました。なお浴室は禅宗寺院で本尊を安置する仏殿(金堂)・仏国土に至る三門(山門)・僧侶の居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・仏道修行に励む禅堂(そうどう)・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。また浴室は僧堂・東司とともに私語を謹む三黙堂(さんもくどう)に数えられています。
妙心寺見どころ

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