南禅寺中門・南禅寺見どころ

南禅寺中門

●南禅寺中門は江戸時代初期の1601年(慶長6年)に武将・松井康之(まついやすゆき)から伏見城・松井邸の門を寄進され、勅使門として建立されました。その後御所・日ノ御門を賜ったことから日ノ御門が勅使門になり、南禅寺中門は現在の場所に移されました。南禅寺中門は幕末まで脇門と言われていました。
松井康之は戦国時代(室町時代後期)の1550年(天文19年)12月8日に室町幕府幕臣・松井正之(まついまさゆき)と荒川治部大輔澄宣の女(むすめ)の次男として松井城で生まれました。最初に室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕えたが、1565年(永禄8年)の永禄の変(えいろくのへん)で足利義輝が三好三人衆らに暗殺されると室町幕府幕臣・細川幽斎(ほそかわゆうさい・細川藤孝)と行動を共にし、その後織田信長(おだのぶなが)に仕えました。また細川幽斎にも仕えたとも言われています。1581年(天正9年)の鳥取城攻めなどで武功を挙げ、細川幽斎は丹後国の領主になり、松井康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられました。1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)後に細川幽斎が出家すると子・細川忠興(ほそかわ ただおき) に仕え、細川忠興が関白・豊臣秀吉に仕えるとそれに従い、豊臣秀吉による富山の役(とやまのえき)・小田原征伐(おだわらせいばつ)・文禄慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)などに従軍しました。その後豊臣秀吉から細川忠興が豊臣秀次(とよとみひでつぐ)謀反への連座の疑い掛けられると疑惑解消に奔走しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で細川忠興とともに徳川方に与し、細川家の飛び領・豊後杵築(ぶんごきつき)で石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)で勝利し、細川忠興から2万6千石の知行と速見郡の御領所1万7千石を預けられました。細川忠興が豊前中津藩に転封されると筆頭家老になりました。松井康之は茶人・千利休(せんのりきゅう)の高弟で、茶人としても知られていました。なお松井康之は1612年(慶長17年)2月23日に亡くなりました。
一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。ちなみに使者は上皇の場合に院使(いんし)、皇后の場合に皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の場合に中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の場合に皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の場合に女院使(にょいんし)と言われます。
●南禅寺中門は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
南禅寺見どころ

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