南禅寺方丈・南禅寺見どころ

南禅寺方丈

●南禅寺方丈は1902年(明治35年)7月31日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)11月14日に国宝に指定されました。
●南禅寺大方丈は慶長年間(1596年~1615年)の御所建て替えの際、天正年間(1573年~1593年)に建てられた女院御所(にょいんのごしょ)の対面御殿を移し、江戸時代初期の1611年(慶長16年)に再建されました。小方丈は寛永年間(1624年~1645年)に建立されました。大方丈は寺伝によると女院御所の対面御殿ではなく、御所の清涼殿(せいりょうでん)が移されたとされています。小方丈は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築城した伏見城(ふしみじょう)の遺構とも言われています。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
女院御所は先代の天皇の皇后である皇太后(こうたいごう)・崩御した天皇の皇后である太皇太后(たいこうたいごう)などの御所です。女院御所には大宮御所(おおみやごしょ)などがありました。なお女院(にょいん)は三后(太皇太后・皇太后・皇后(こうごう))やそれに準ずる身分(准后(じゅごう)・内親王(ないしんのう)・女御 (にょうご) など)の女性に宣下された称号です。第66代・一条天皇の母・藤原詮子(ふじわらのせんしが出家した際に「東三条院(ひがしさんじょういん)」を贈られたのが最初です。
清涼殿は平安時代に天皇の居住の為の建物でした。ただ天正年間(1573年~1592年)に御常御殿(おつねごてん)が造営されてからは天皇の居住の場が移り、清涼殿は天皇の執務や儀式を行う建物になりました。清涼殿は一対の獅子狛犬が護り、天皇の休息の場だった御帳台などがありました。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
南禅寺見どころ

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