南禅寺方丈庭園・南禅寺見どころ

南禅寺方丈庭園

●南禅寺方丈庭園は1951年(昭和26年)6月9日に国の名勝に指定されました。
●南禅寺方丈庭園は江戸時代前期の1611年(慶長16年)頃に小堀遠州(こぼりえんしゅう)が作庭したと言われています。南禅寺は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって伽藍の多くを焼失し、江戸時代初期の1605年(慶長10年)に黒衣の宰相(こくいのさいしょう)とも言われた金地院崇伝(こんちいんすうでん)が入寺してから再興が始まりました。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
●南禅寺方丈庭園は江戸時代初期の代表する面積約120坪の枯山水式庭園で、虎の子渡しの庭とも言われています。南禅寺方丈庭園は東西に細長い地形に南部から西部に築地塀が築かれ、築地塀沿いに石組が配され、方丈(国宝)側から見て前方と右手に白砂が広がっています。
枯山水は池や遣水(やりみず)などの水を用いず、地形や石・砂礫(されき)などで山水の風景を表現する庭園様式です。枯山水は水がない庭で、石で滝、白砂で水などを表現する石組みを主体とし、植物が用いられてもごく僅かです。枯山水は中国の庭園や中国の宋(そう)・明(みん)の山水画(破墨山水(はぼくさんすい))などの影響を受け、南北朝時代(1336年~1392年)から室町時代(1336年~1573年)に禅宗寺院を中心に発達しました。禅宗寺院では方丈前庭などに多く作庭されました。枯山水は最初実景の写実的な模写が多かったが、次第に象徴化・抽象化が進み、石の配列による空間構成の美が重視されるようになった。枯山水は仮山水(かさんすい)・故山水(ふるさんすい)・乾泉水(あらせんすい)・涸山水(かれさんすい)などとも言われています。
南禅寺見どころ

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