南禅寺三門・南禅寺見どころ(修学旅行)

南禅寺三門

●南禅寺三門は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●南禅寺三門は江戸時代前期の1628年(寛永5年)に藤堂家宗家初代で、伊勢津藩初代藩主・藤堂高虎(とうどうたかとら)が大坂夏の陣で戦死した家来の菩提を弔う為に再建しました。南禅寺三門は初代が鎌倉時代の1295年(永仁3年)に公卿(くぎょう)・西園寺実兼(さいおんじさねかね)の寄進によって建立され、2代目が南北朝時代の応安年間(1368年~1375年)に再建されたが、室町時代中期の1447年(文安4年)の火災で焼失しました。なお南禅寺三門には本尊・宝冠釈迦座像(ほうかんしゃかざぞう)などや藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。
藤堂高虎は戦国時代(室町時代後期)の1556年(弘治2年)2月16日に近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高(とうどうとらたか)と藤堂忠高(とうどうただたか)の娘の次男として生まれました。15歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕え、1570年(元亀元年)の姉川の戦い(あねがわのたたかい)などで武功を挙げました。1573年(天正元年)に小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)で浅井氏が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされ、1576年(天正4年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)に仕え、豊臣秀長の没後に甥で、養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)に仕えたが、豊臣秀保が早世すると高野山で剃髪しました。しかし豊臣秀吉の懇望によって直臣になり、1595年(文禄4年)に伊予国に7万石を与えられて宇和島城主になりました。1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で小早川秀秋(こばやかわひであき)を監視し、寝返った小早川秀秋とともに大谷吉継(おおたによしつぐ)を討って12万石が加増されました。その後徳川家の重臣として仕え、江戸城の改築などを行って、慶長13年(1608年)に伊勢津藩初代藩主に転封されました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣・1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で徳川方として参戦し、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と戦った八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい)では一族の藤堂良勝(とうどうよしかつ)・藤堂高刑(とうどうたかのり)など600人余りの死傷者を出しました。藤堂高虎は1630年(寛永7年)11月9日に亡くなりました。なお藤堂高虎は城普請の名手で、茶の湯・能楽・文学なども嗜みました。徳川家康は臨終の床で、「国家の大事のときには一の先手は藤堂高虎、二の先手は井伊直孝」と申し置いたと言われています。
一般的に三門(山門)は一切は空と悟る空門(くうもん)・一切の執着を離れた無相門(むそうもん)・一切の願求(がんぐ)の念を捨てる無願門(むがんもん)の三境地を経て、仏国土(ぶっこくど)に至る門・三解脱門(さんげだつもん)のことです。三門は寺院の正門で、禅宗七堂伽藍(山門・本尊を安置する仏殿(金堂)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・坐禅など仏道修行に励む僧堂(そうどう)・僧侶が居住する庫裏(くり)・トイレである東司(とうす)・浴室である浴室(よくどう))に数えられています。なお山門は本来山上に建てられた寺院の門のことを言っていたが、現在は平地に建てられた寺院の門のことも言います。
南禅寺見どころ

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