南禅寺水路閣・南禅寺見どころ

南禅寺水路閣

●南禅寺水路閣は京都市の史跡です。
●南禅寺水路閣は1888年(明治21年)に完成しました。南禅寺水路閣は琵琶湖疏水(びわこそすい)の一部で、周辺の景観に配慮して田辺朔郎(たなべさくろう)が設計しました。
琵琶湖疏水は第3代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)が京都近代化政策の一環として計画しました。琵琶湖疏水には当初舟運・発電・上水道・灌漑の目的がありました。琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都市内に通す水路で、滋賀県大津市三保ヶ崎の琵琶湖畔から長等山(ながらやま)などの山をトンネルで抜け、京都・蹴上(けあげ)から鴨川(かもがわ)左岸に至り、南下して宇治川に合流します。琵琶湖疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に三保ヶ崎から鴨川合流点までの長さ約8.7キロの第1疏水と蹴上から分岐する疏水分線が完成しました。北側を並行し、全水路がトンネルである長さ約7.4キロの第2疏水は1908年(明治41年)に着工され、1912年(明治45年)に完成しました。ちなみに鴨川から宇治川までの鴨川運河は1892年(明治25年)に着工され、1895年(明治28)に完成しました。水路閣は1983年(昭和58年)7月1日に蹴上インクラインとともに「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定の史跡になりました。なお琵琶湖疏水は国の史跡に指定されています。
北垣国道は1836年(天保7年)9月17日に鳥取藩郷士・北垣三郎左衛門の子として生まれました。1841年(天保12年)に江戸時代末期の儒学者・池田草庵(いけだそうあん)の私塾で、漢学塾・青谿書院(せいけいしょいん)で学びました。幕末(江戸時代後期)に公卿・澤宣嘉(さわのぶよし)を主将とする尊皇攘夷派が挙兵した生野の変(いくののへん)に参加して敗れ、京(京都)・江戸(東京)を経由して長州に潜伏しました。幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)に藩士に列せられ参戦しました。明治維新後に弾正台(だんじょうだい)・高知県県令(第4代)・徳島県県令(第7代・第8代)などを歴任し、1881年(明治14年)に京都府知事に就任し、1892年(明治25年)に北海道庁長官(第4代)に就任するまで務めました。京都府知事在任中に京都商工会議所設立を認可し、琵琶湖疏水事業を計画・着手して殖産興業政策を進めました。その後拓殖務次官・ 貴族院勅選議員・枢密顧問官などを歴任し、1916年(大正5年)1月16日に亡くなりました。
田辺朔郎は幕末(江戸時代後期)の1861年(文久元年)12月2日に幕臣・田辺孫次郎(たなべまごじろう)とふき子の長男として東京市根津愛染町に生まれました。田辺朔郎は生後間もなく父・田辺孫次郎が亡くなり、叔父・田辺太一(たなべたいち)が後見人となり、5歳から大久保敢斎から漢学、福地源一郎から洋学を学びました。1871年(明治4年)に南部藩の共慣義塾で英語・数学・漢学を学び、1875年(明治8年)に工学寮付属小学校に転校し、1877年(明治10年)に工部大学校(東京大学工学部)に進んで土木工学を専攻しました。1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、琵琶湖疏水の担当になり、1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に第1疏水と疏水分線が完成しました。ちなみに工事途中で蹴上(けあげ)に日本初の水力発電所が併設されました。1890年(明治23年)の第1疏水完成後に帝国大学工科大学(工部大学校)の教授に任命されて帰京し、榎本武揚(えのもとたけあき)の媒酌で北垣国道の長女・静子と結婚しました。その後内務省土木会委員・北海道庁鉄道部長・宮内省内匠寮御用掛・京都帝国大学工科大学長などを歴任し、1944年(昭和19年)9月5日に亡くなりました。
南禅寺見どころ

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