祇園祭と「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」

祇園祭と「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」

祇園祭は後白河法皇が絵師・常盤光長らに描かせ、藤原基房に校閲させた「年中行事絵巻」に描かれています。「年中行事絵巻」第9巻の「祇園御霊会の神輿遷幸」には平安時代後期に祇園祭の中心行事だった神輿渡御が描かれています。

【祇園祭 日程】
祇園祭は7月1日の吉符入(きっぷいり) から7月31日の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
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【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【祇園祭と「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」】
祇園祭は後白河法皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))が絵師・常盤光長(ときわみつなが)らに描かせ、藤原基房(ふじわらのもとふさ)に校閲させた「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」に描かれています。ちなみに「年中行事絵巻」は平安時代後期の1157年(保元2年)~1179年(治承3年)頃に完成し、後白河法皇が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、1165年(長寛2年)1月30日に完成した三十三間堂(さんじゅうさんがんどう)の宝蔵に納められたが、その後散逸したり、内裏の火災で焼失したりし、江戸時代前期の1661年(寛文元年)頃に後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))の命によって土佐広通(とさひろみち・住吉如慶(すみよしじょけい))らが写した模本が伝わっています。
「年中行事絵巻」第9巻の「祇園御霊会の神輿遷幸」には南北時代以降に主役となる山鉾ではなく、平安時代後期に祇園祭の中心行事だった神輿渡御(還幸祭(かんこうさい))が描かれています。屋根の上に葱花(そうか)をのせた葱花輦(そうかれん)を模した神輿を中央に配し、その前後に屋根の上に鳳凰(ほうおう)をのせた鳳輦(ほうれん)を模した神輿が2基描かれています。中央の神輿に頗梨采女(はりさいじょ・ばりうねめ)、右側(先頭)の神輿に牛頭天王(ごずてんのう)、左側(殿)の神輿に八王子(はちおうじ)を神霊をのせています。描かれている神輿は現在の神輿に比べると小型で、前後左右4人の駕輿丁(かよちょう)が担ぎ、童(わらわ)・水干烏帽子(すいかんえぼし)の神人(じにん)・僧侶などが前後左右4本の引綱を曳いています。また獅子舞(ししまい)・風流傘・騎馬田楽(きばでんがく)・牛車や太鼓・横笛などで音楽を奏でる人なども描かれています。更に見物人も多く描かれています。平安時代中期に祭りと言えば、葵祭(あおいまつり)を指していたが、平安時代後期に祇園祭も大変賑わっていたことが分かります。なお「年中行事絵巻」では神輿渡御に僧侶が関わるなど神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代の祇園祭を知る資料になっています。
「年中行事絵巻」には宮中の儀式・祭事・法会・遊戯・民間の風俗などの年中行事が描かれました。60巻の原本は散逸したり、焼失したりし、土佐広通(住吉如慶)らが写した17巻が現存したいます。

【常盤光長 祇園祭】
常盤光長は生没年不詳です。常盤光長は出自が明確ではなく、中務大輔・藤原経隆または豊前守・藤原邦隆の子とも言われ、藤原光長または土佐光長とも言われています。常盤光長は従四位下・刑部大輔に任じられました。平安時代後期の1173年(承安3年)に藤原隆信とともに後白河上皇(第77代・後白河天皇)の寵妃・建春門院の発願によって建立された最勝光院の御所や御堂の障子絵を描きました。後白河上皇と建春門院の平野行啓・日吉御幸・高野行幸の情景なども描きました。更に後白河法皇の命により、「年中行事絵巻」を描きました。ちなみに「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)」・「吉備大臣入唐絵巻」も描いたとも言われています。常盤光長は大和絵の名手で、宮廷絵師として後白河法皇周辺で活躍しました。

【常盤光長 祇園祭】
藤原基房(松殿基房)は1145年(久安元年)に関白・藤原忠通と源国信の娘・源俊子の間に生まれ、藤原忠通の五男でした。1156年(保元元年)に元服して正五位下に叙されました。その後左近衛少将・権中納言・内大臣・右大臣・左大臣などを歴任し、1166年(仁安元年)に異母兄で、摂政・近衛基実が24歳で亡くなるとその嫡子・近衛基通が幼かったことから摂政に任じられました。近衛基実・近衛基通の父子は平清盛の娘を妻として平家と結んでいたが、1170年(嘉応2年)に平重盛の子・平資盛と殿下乗合事件を起こし、後白河上皇(第77代・後白河天皇)と結んで平家と対立しました。1170年(嘉応2年)に太政大臣になり、1172年(承安2年)に関白になりました。1179年(治承3年)に平清盛が後白河法皇を幽閉すると大宰権帥に左遷され、大宰府に送られる途中で出家したことから備前国配流に減免され、1180年(治承4年)に赦されて京都に戻りました。その後木曽義仲と結んで、子・藤原師家が摂政になったが、木曽義仲が亡くなると政治の表舞台から去って隠棲しました。藤原基房は朝儀・公事・故実に通じ、朝廷で重んぜられました。なお藤原基房は1231年(寛喜2年)2月1日に亡くなりました。

【祇園祭と「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
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