二条城本丸御殿・二条城見どころ

二条城本丸御殿

●二条城本丸御殿(玄関・御常御殿・御書院・台所・雁之間)は1944年(昭和19年)9月5日に国の重要文化財に指定されました。
●二条城本丸御殿(玄関・御常御殿・御書院・台所・雁之間)は1893年(明治26年)から1894年(明治27年)に旧桂宮(かつらのみや)邸を移して再建されました。御書院は江戸時代中期の1790年(寛政2年)~1793年(寛政5年)、台所・雁之間・玄関は1847年(弘化4年)、御常御殿は1849年(嘉永2年)に建てられました。
玄関は西面約27.3メートル・南面約13.8メートルで、入母屋造の桟瓦葺です。御車寄は唐破風造の銅板葺です。玄関には内玄関・玄関の間・取次詰所・取次の間・竹の間・殿上の間・公卿の間・使者の間があります。
御常御殿は西面約13.9メートル・南面約31.7メートルの二重二階で、西面が入母屋造・東面が寄棟造です。御常御殿は一階に御座の間草花の間・御座の間耕作の間・御座の間松鶴の間・御座の間御寝の間・萩の間・御納戸・化粧の間・御茶所があり、二階に次の間・控の間・御座所があります。
御書院は南面約18.6メートル・東面約25.4メートルで、入母屋造の桟瓦葺です。御書院には雲鶴一の間・雲鶴二の間・雲鶴三の間・小書院春の間・小書院夏の間・小書院秋の間・小書院冬の間・中書院一の間・中書院二の間・中書院三の間があります。
台所・雁之間は南面約20.6メートル・東面約9.625.4メートルで、切妻造の桟瓦葺です。
桂宮は安土桃山時代の1589年(天正17年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が第106代・正親町天皇の皇孫で、誠仁親王(さねひとしんのう)の第6皇子・智仁親王(としひとしんのう)の為に宮家創立を奏請して所領を献じ、八条宮家を創設したのが起源です。豊臣秀吉は織田信長(おだのぶなが)が誠仁親王の第5王子・邦慶親王(くによししんのう)を猶子にしたことに倣って、1586年(天正14年)に智仁親王を猶子としていたが、1589年(天正17年)に豊臣秀吉に実子・豊臣鶴松(とよとみつるまつ)が生まれると解消になり、豊臣秀吉が宮家創立を奏請しました。桂宮は伏見宮(ふしみのみや)・有栖川宮(ありすがわみや)・閑院宮(かんいんみや)とともに四世襲親王家に数えられました。その後しばしば継嗣を欠き、その都度皇子が入って相続してきました。江戸時代中期の1696年(元禄9年)に第112代・霊元天皇の第6皇子・文仁親王(あやひとしんのう)が継承する際に京極宮(きょうごくのみや)に改称され、江戸時代後期の1810年(文化7年)に第119代・光格天皇の第4皇子・盛仁親王(たけひとしんのう)が継承して桂宮に改称しました。1881年(明治14年)に第120代・仁孝天皇の第3皇女で、桂宮11世・淑子内親王(すみこないしんのう)が亡くなると断絶しました。
かつての本丸御殿は江戸時代前期の1626年(寛永3年)に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が第108代・後水尾天皇の二条城への行幸を迎える為に二条城の区域を西側に拡げて建設しました。殿が建てられましたが、1788年(天明8年)に天明の大火(てんめいのたいか)で焼失しました。天明の大火は1788年(天明8年)1月30日(3月7日)の未明に鴨川東側の宮川町団栗辻子(京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火し、折からの強風に煽られ、鴨川西側の寺町通に燃え移って洛中に延焼し、夕方に二条城本丸が炎上し、その後御所にも燃え移り、2日後の2月2日(3月9日)早朝に鎮火したと言われています。江戸時代後期(幕末)に15代将軍・徳川慶喜が御殿を建てましたが、1881年(明治14年)頃に取壊されています。
二条城見どころ

ページ上部へ戻る