二条城本丸庭園・二条城見どころ

二条城本丸庭園

●二条城本丸庭園は1895年(明治28年)5月23日に第122代・明治天皇が本丸に行幸した際に枯山水風庭園からの改修を命じ、1896年(明治29年)に芝庭風築山式庭園として完成しました。二条城本丸庭園はかつて二の丸庭園に引けを取らない庭園だったとも言われているが、史料が多く残されていません。また1788年(天明8年)の天明の大火で本丸御殿などが焼失し、本丸庭園も延焼して空地になったとも言われています。幕末(江戸時代末期)に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の居室が本丸に建てられ、庭園は茶庭風に作庭されたとも言われています。1881年(明治14年)に徳川慶喜の居室が撤去され、庭園も取り壊されたが、1893年(明治26年)から京都御苑内にあった旧・桂宮邸の一部が本丸に移され、枯山水庭園が作庭されました。
第122代・明治天皇は江戸時代後期の1852年(嘉永5年)11月3日に第121代・孝明天皇と典侍・中山慶子(なかやまよしこ)の第2皇子として生まれました。1860年(万延元年)8月に皇太子になり、同年11月に親王宣下を受け、諱名(いみな)・睦仁(むつひと)を賜りました。1864年(元治元年)に長州藩による禁門の変(きんもんのへん)が起き、宮中に不審者が侵入すると一時卒倒し、長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父で、権大納言・中山忠能(なかやまただやす)に蟄居になりました。1867年(慶応2年)に父・孝明天皇が崩御すると14歳で第122代・明治天皇になりました。同年朝廷は江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還(たいせいほうかん)の上表に勅許を与え、薩摩藩・長州藩に討幕の密勅を下しました。その後王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発し、新政府樹立が宣言されました。1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)に錦旗(きんき)と節刀(せっとう)を与えて征討大将軍に任命し、旧幕府勢力を鎮圧しました。1868年(明治元年)に五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を発布し、新政府の基本方針を表明し、明治に改元して一世一元の制(いっせいいちげんのせい)を定めました。1869年(明治2年)に東京に遷都し、版籍奉還(はんせきほうかん)の上表を勅許し、1871年(明治4年)に廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。1882年(明治15年)に陸海軍を天皇の軍隊と規定して軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を発し、1884年(明治17年)以降に立憲制・官僚制に対応する諸体系を整備し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を公布し、1890年(明治23年)に教育勅語(きょういくちょくご・教育ニ関スル勅語)を発しました。1894年(明治27年)からの日清戦争(にっしんせんそう)・1904年(明治37年)からの日露戦争(にちろせんそう)で直接戦争を指導しました。なお第122代・明治天皇は1912年(明治45年)7月30日に亡くなりました。
二条城見どころ

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