二条城二の丸御殿・二条城見どころ

二条城二の丸御殿

●二条城二の丸御殿は1939年(昭和14年)10月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●二条城二の丸御殿は江戸時代初期の1602年(慶長7年)5月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命によって着工され、1603年(慶長8年)3月に完成しました。1603年(慶長8年)2月12日に伏見城で将軍宣下を受けた徳川家康は竣工間もない3月12日に入城し、3月27日に江戸幕府の重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀が行われました。1624年(寛永元年)に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が第108代・後水尾天皇の二条城への行幸を迎える為に二の丸御殿などの大改築を開始し、1626年(寛永3年)に二の丸御殿が現在の規模になりました。第108代・後水尾天皇の行幸は1626年(寛永3年)10月25日から5日間に渡って行われ、舞楽・能楽・乗馬・蹴鞠・和歌の会などが行われました。なお二の丸御殿では1611年(慶長16年)に徳川家康が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)と会見したり、1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還の意思を発表したりしました。
徳川家康は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文11年)に三河国額田郡岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)と於大の方(おだいのかた)の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で織田信長(おだのぶなが)が今川義元(いまがわよしもと)を討つと岡崎に戻り、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。安土桃山時代の1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)で織田信長が自刀するとは関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)と対立するが、その後和睦して豊臣秀吉の天下統一に協力し、豊臣政権の五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。なお徳川家康は1616年(元和2年)6月1日になくなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)6月29日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の間に第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)3月27日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の制定や東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)11月8日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は1653年(承応2年)から修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営を開始し、1655年(承応4年)に完成しました。なお後水尾天皇は1680年(延宝8年)9月11日に85歳で崩御しました。
二条城見どころ

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