二条城西門・二条城見どころ

二条城西門

●二条城西門は1939年(昭和14年)10月28日に国の重要文化財に指定されました。
●二条城西門は江戸時代初期の1602年(慶長7年)~1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命によって造営され、1625年(寛永2年)~1626年(寛永3年)に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が改修したと言われています。二条城西門は大政奉還後に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が通って大阪城に向かったことで知られています。
徳川慶喜は江戸時代後期の1837年(天保8年)10月28日に常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)と有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王女で、正室・吉子女王(よしこじょおう)の七男として江戸小石川の水戸藩邸で生まれました。1838年(天保9年)に江戸から水戸に移ったが、1847年(弘化4年)に御三卿(ごさんきょう)に数えられた一橋家相続の含みで、江戸幕府から江戸出府を命じられました。その後藩校・弘道館で学問・武術を学び、父・徳川斉昭から偏諱を賜り、松平昭致(まつだいら あきむね)と名乗りました。1847年(弘化4年)に一橋家を相続し、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)から偏諱を賜わり、徳川慶喜と名乗りました。1853年(嘉永6年)の黒船来航時に徳川家慶が亡くなり、江戸幕府第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)が病弱だったことから将軍継嗣問題が起こり、徳川慶喜の一橋派と徳川家茂(とくがわいえもち)の南紀派が対立したが、大老・井伊直弼(いいなおすけ)の裁定により、徳川家茂が江戸幕府第14代将軍に決定しました。その後1858年(安政5年)からの井伊直弼による安政の大獄で謹慎になったが、1860年(安政7年)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると謹慎を解除され、1862年(文久2年)に将軍後見職に任命されました。1864年(元治元年)に将軍後見職を辞任して禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。1866年(慶応2年)に徳川家茂が第二次長州征伐最中に大坂城で亡くなり、その後二条城で将軍宣下を受けて江戸幕府第15代将軍になったが、翌1867年(慶応3年)に政権を返上する大政奉還(たいせいほうかん)を行いました。戊辰戦争(ぼしんせんそう)後謹慎していたが、その後謹慎が解除され、1902年(明治35年)に公爵に叙せられました。その後貴族院議員にも就いたが、1910年(明治43年)に七男・德川慶久(とくがわよしひさ)に家督を譲って貴族院議員を辞しました。なお徳川慶喜は1913年(大正2年)11月22日に亡くなりました。
●二条城西門は埋門で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。二条城西門は美福通(びふくどおり)に面して造営されているが、現在外堀に架けられていた橋が取り払われ、出入りすることはできません。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
美福通は北側の丸太町通(まるたまちどおり)から南側の押小路通(おしこうじどおり)まで南北に伸びています。美福通の名称は平安京大内裏(だいだいり)の外郭十二門のひとつである美福門に由来しています。ちなみに美福門は越前国の壬生(みぶ)氏が造営したことに由来し、「みぶ」から「びふく」になったと言われています、
二条城見どころ

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