二条城北大手門・東大手門・二条城見どころ

二条城北大手門・東大手門

●二条城大手門・東大手門は1939年(昭和14年)10月28日に国の重要文化財に指定されました。
●二条城北大手門は江戸時代初期の1602年(慶長7年)~1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命によって造営され、1625年(寛永2年)~1626年(寛永3年)に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が改修したと言われています。二条城北大手門は竹屋町通(たけやまちどおり)に面して造営されています。なお二条城北大手門は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
竹屋町通は東側の桜馬場通(さくらのばんばどおり)から西側の千本通(せんぼんどおり)までの東西の通りです。ただ鴨川を挟む川端通(かわばたどおり)から土手町通(どてまちどおり)の間は分断されています。
●二条城東大手門は江戸時代前期の1662年(寛文2年)に造営されたと言われています。二条城東大手門は堀川通(ほりかわどおり)に面して造営され、二条城の正門です。二条城東大手門は1626年(寛永3年)の第108代・後水尾天皇行幸の際、上から見下ろす櫓門から一重門に変えられ、1662年(寛文2年)に櫓門に戻されたと言われています。
第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)6月29日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の間に第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)3月27日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の制定や東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)11月8日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は1653年(承応2年)から修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営を開始し、1655年(承応4年)に完成しました。なお後水尾天皇は1680年(延宝8年)9月11日に85歳で崩御しました。
堀川通は平安京の堀川小路にあたります。堀川通は北側の加茂街道(かもかいどう)から南側の東海道本線交差部付近で、一筋東側を走っていた油小路通(あぶらのこうじどおり)に合流しています。
二条城見どころ

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