二条城東南隅櫓・西南隅櫓・二条城見どころ

二条城東南隅櫓・西南隅櫓

●二条城東南隅櫓・西南隅櫓は1939年(昭和14年)10月28日に国の重要文化財に指定されました。
●二条城東南隅櫓・西南隅櫓は慶長年間(1596年~1615年)に造営され、寛永年間(1624年~1645年)に改修されたとも言われています。また1626年(寛永3年)の第108代・後水尾天皇の行幸に際して造営されたとも言われています。1624年(寛永元年)に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が第108代・後水尾天皇の二条城への行幸を迎える為に二の丸御殿などの大改築を開始しました。外堀には北東隅櫓・北西隅櫓も造営されていたが、1788年(天明8年)の天明の大火で焼失しました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●二条城東南隅櫓・西南隅櫓はいずれも二重二階櫓で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。東南隅櫓は西南隅櫓よりも一回り大きく造営され、1階の屋根に千鳥破風(ちどりはふ)があります。西南隅櫓には唐破風(からはふ)があります。東南隅櫓・西南隅櫓は板敷で、2階にだけ棹縁天井(さおぶちてんじょう)が張られています。隅櫓は見張り台として造営され、普段武器庫として使われていました。東南隅櫓・西南隅櫓には1階の外堀に面する出窓に石落しがあり、2階に火縄を掛ける釘が打たれています。なお二条城では外堀・内堀の四隅と外堀北中央に9棟の櫓が造営され、内堀南西隅の5階建ての天守閣・内堀北西隅の3階建の櫓を除くと2階建てでした。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
二条城見どころ

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