二条城天守台・二条城見どころ(修学旅行)

二条城天守台

●二条城天守台はかつて五重六階の天守閣が建てられていた場所です。江戸時代初期の1602年(慶長7年)5月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命によって天守の建設が着工され、1606年(慶長11年)に天守が完成しました。1624年(寛永元年)から江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が第108代・後水尾天皇の二条城への行幸を迎える為、近江国小室藩初代藩主・小堀遠州(こぼりえんしゅう・小堀政一(こぼりまさかず))と京都郡代・五味豊直(ごみとよなお)を作事奉行として二条城の拡張・殿舎の整備に着手しました。かつて天守は山城国久世郡淀(京都市伏見区淀本町)の淀城(よどじょう)に移築され、一国一城令によって廃城になった伏見城(ふしみじょう)の天守が移築され、1626年(寛永3年)に天守閣などが完成しました。ちなみに第108代・後水尾天皇の行幸は1626年(寛永3年)10月25日から5日間に渡って行われ、天守閣に昇ったとも言われています。天守閣は天皇が唯一昇った天守閣と言われました。なお天守閣は江戸時代中期の1750年(寛延3年)の落雷によって焼失しました。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)6月29日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の間に第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)3月27日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の制定や東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)11月8日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は1653年(承応2年)から修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営を開始し、1655年(承応4年)に完成しました。なお後水尾天皇は1680年(延宝8年)9月11日に85歳で崩御しました。
二条城見どころ

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