二条城釣鐘・二条城見どころ(修学旅行)

二条城釣鐘

●二条城釣鐘は幕末(江戸時代末期)に二条城と北側にあった京都所司代との連絡に使われました。2つの釣鐘は二条城と京都所司代に設置されていました。二条城では東北隅の艮櫓(うしとらやぐら)跡に京都所司代・千本屋敷から火の見櫓を移し、鐘楼を建てて釣鐘を吊っていました。明治時代に二条城に京都府が置かれた際にも非常時に使用されたそうです。
京都所司代は江戸時代初期の1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)後に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が設置しました。京都所司代は鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)や室町幕府の侍所所司代に倣って設置されました。京都所司代は京都の守護、朝廷・公家に関する政務の管掌、京都町奉行・伏見奉行・奈良奉行の支配、京都周辺8か国(五畿内(摂津・河内・和泉・大和・山城)・近江・丹波・播磨)の天領の訴訟、西国大名の監視などを行いました。ただ1668年(寛文8年)に京都支配など民政上の権限が京都町奉行に移譲されました。京都所司代は定員1名で、3万石以上の譜代大名から任命され、役料が1万石与えられ、与力30騎(50騎)、同心100人が属しました。初代には上野小幡藩初代藩主・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が任命されました。なお京都所司代は二条城北側一帯に広大な敷地を持ち、上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などがありました。
一般的に梵鐘は寺院で時刻や非常を告げる鐘です。梵鐘は除夜の鐘でも知られています。梵鐘は釣鐘(つりがね)・撞鐘 (つきがね) とも言われるが、大鐘(おおがね)・洪鐘(おおがね・こうしょう)・撞鐘(どうしよう)・蒲牢(ほろう)・鯨鐘(げいしょう)・巨鯨(きょげい)・華鯨(かげい)・突鐘(つきがね)・鴻鐘(こうしよう)・鳧鐘(ふしよう)・九乳(くにゆう)・青石(せいせき)・霊鐘(れいしよう)などとも言われています。梵鐘はインド(天竺)で集会の際に用いられた木製のかん稚(かんち)と中国の銅鐘に基づいて造られました。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」には562年(第29代・欽明天皇23年)に古墳時代後期の豪族・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が梵鐘を高句麗(こうくり)から日本に持ち帰ったとの記録が残っています。ただ梵鐘は現存せず、梵鐘の内面に「戊戌年(698年)筑前糟屋評(福岡市)造云々」の銘がある京都・妙心寺(みょうしんじ)の梵鐘(国宝)が日本製の最古の梵鐘です。梵鐘は銅に少量の錫(すず)・亜鉛(あえん)などを混じて鋳造されます。梵鐘は上部に鐘楼に吊るす釣り手として竜頭(りゅうず)があり、下部に一対の蓮華(れんげ)状の撞座(つきざ)を配し、これを橦木(しゅもく)で突きます。梵鐘に上帯・中帯・下帯・乳の間・乳・草の間・池の間・駒の爪などがあります。
二条城見どころ

ページ上部へ戻る