二条城和楽庵・二条城見どころ(修学旅行)

二条城和楽庵

●二条城和楽庵は1965年(昭和40年)に高瀬川一之船入(いちのふないり)にあった築約300年の旧・角倉了以(すみのくらりょうい)屋敷の数寄屋(すきや)を移し、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)ゆかりの残月亭(ざんげつてい)を模した茶室を表千家(おもてせんけ)から寄贈されて増築したものです。旧・角倉了以屋敷は幕末(江戸時代末期)まで角倉家が維持し、明治維新後に京都府の所管になって織物技術伝習所として利用され、その後変遷して大坂の富豪・田中市兵衛の別邸になりました。
角倉了以は戦国時代(室町時代後期)の1554年(天文23年)に京都嵯峨の土倉業・吉田宗桂(よしだそうけい)の長男として生まれました。1592年(慶長8年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から朱印状を得て、朱印船をベトナム(安南)に派遣し貿易を行いました。また私財を投じて大堰川(おおいがわ・桂川(かつらがわ))・高瀬川(たかせがわ)を開削し、江戸幕府の命によって富士川(ふじがわ)・天竜川(てんりゅうがわ)・庄内川(しょうないがわ)なども開削しました。角倉了以は琵琶湖疏水の設計者・田辺朔郎(たなべさくろう)とともに「水運の父」とも言われています。なお角倉家は公儀呉服師・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の茶屋家と金座の当主・後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)の後藤家とともに「京の三長者」とも言われています。
一之船入は江戸時代に高瀬川を使って輸送される荷物の上げ下ろしや船の方向転換をする為に造られました。一之船入は奥行約133.5メートル・幅約16メートルで、三方から荷物の上げ下ろしができました。一之船入は1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定されました。なお高瀬川では当初二条から四条に船入が7か所造られましたが、17世紀末に9か所に増えました。
残月亭は安土桃山時代に千利休(せんのりきゅう)が聚楽屋敷(じゅらくやしき)に建てた色付(いろつけ)九間書院を写したものと言われています。色付九間書院には二畳の上段と付書院のある四畳の中段があり、四畳の中段は化粧屋根裏になっていました。残月亭の名称は関白・豊臣秀吉が上段の柱(太閤柱)にもたれ、四畳の中段の突上窓(つきあげまど)から名残の月を眺めたと言われていることに由来しています。なお聚楽屋敷は安土桃山時代の1586年(天正14年)に豊臣秀吉が聚楽第(じゅらくてい)を造営した際にその周囲に千利休が屋敷を構えたものです。聚楽屋敷は現在の晴明神社(せいめいじんじゃ)の社地に隣接し、千利休は茶会を催したと言われています。
表千家は茶道流派のひとつで、裏千家(うらせんけ)・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家に数えられています。表千家は千利休(せんのりきゅう)による千家流茶道の本家であり、千利休が建てた茶室・不審庵(ふしんあん)を受け継いだ千利休の孫・千宗旦(せんそうたん)の三男・江岑宗左(こうしんそうさ)に始まります。不審庵は元々大徳寺(だいとくじ)の門前に建てられ、その後度々焼失し、1914年(大正3年)に現在の不審庵が再建されました。
二条城見どころ

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