仁和寺福王子神社・仁和寺見どころ(修学旅行・観光)

仁和寺福王子神社

●仁和寺福王子神社はかつて仁和寺の守護神だったとも言われています。福王子神社は「延喜式神名帳(927年(延長5年))」に記されていた深川神社が起源とも言われているが、室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、江戸時代前期の1644年(寛永21年)に仁和寺21世・覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進により、仁和寺の伽藍とともに社殿を造営しました。なお福王子神社は第58代・光孝天皇の女御で、第59・宇多天皇の母である班子皇后(はんしこうごう)の陵墓が付近にあったことから班子皇后を祀っています。福王子神社の社名は班子女王が多くの皇子・皇女を生んだことに由来しています。
班子皇后は平安時代前期の833年(天長10年)に第50代・桓武天皇の第12皇子・仲野親王(なかのしんのう)と母・当宗(まさむね)氏の娘として生まれました。その後第54代・仁明天皇の第3皇子・時康親王(第58代・光孝天皇)と結婚し、是忠親王(これただしんのう)、是貞親王(これさだしんのう)、第59代・宇多天皇となる定省親王(さだみしんのう)、源元長(みなもとのもとなが)、忠子内親王(ただこないしんのう)、簡子内親王(かんしないしんのう)、綏子内親王(すいしないしんのう)、為子内親王(ためこないしんのう)の4男・4女を生みました。884年(元慶8年)に夫・時康親王が第58代・光孝天皇に即位すると女御になり、887年(仁和3年)に皇子・定省親王が第59代・宇多天皇に即位すると皇太夫人になり、897年(寛平9年)に孫・敦仁(あつぎみしんのう)が第60代・醍醐天皇が即位すると皇太后になりました。班子皇后は洞院后と称され、浄福寺を建立し、寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)の主催しました。なお班子皇后は900年(昌泰3年)5月2日に亡くなりました。
●仁和寺福王子神社は江戸時代前期の1644年(寛永21年)に本殿(一間社春日造・銅板葺)、寛永年間(1624年~1645年)に拝殿(入母屋造・銅板葺)・鳥居(石造明神鳥居)が仁和寺21世・覚深入道親王が江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によって造営しました。
覚深法親王・覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)は安土桃山時代の1588年(天正16年)5月29日に第107代・後陽成天皇と典侍・中山親子(ちかこなかやま)の第1皇子・良仁親王(かたひとしんのう)として生まれました。1594年(文禄3年)6月に次期天皇即位を前提として親王宣下を受け、その後将来の東宮御所に正親町上皇(第106代・正親町天皇)の御所を与えられました。しかし1598年(慶長3年)に後ろ盾とも言われる関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡くなると第107代・後陽成天皇が良仁親王(覚深法親王)を皇位継承者から外す意向を示し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が良仁親王を廃し、第107代・後陽成天皇の正室・近衛前子(このえさきこ)が生んだ第3皇子・政仁親王(第108代・後水尾天皇)が次期天皇に即位することになりました。1601年(慶長6年)4月に仁和寺の院家・真光院に入って得度し、晋海から灌頂(かんじょう)を受けました。1614年(慶長19年)に一品に叙せられて法中第一座の宣下を受け、その後仁和寺門跡になりました。なお覚深法親王は1648年(慶安元年)3月15日に亡くなりました。
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