仁和寺金堂・仁和寺見どころ

仁和寺金堂

●仁和寺金堂は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)11月14日に国宝に指定されました。
●仁和寺金堂は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1645年)に1613年(慶長18年)造営の御所・紫宸殿(ししんでん)を賜って宮殿から仏堂に改めました。仁和寺は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって一山のほとんどを焼失し、本尊・阿弥陀三尊などは仁和寺の院家・真光院(しんこういん)に移されました。「仁和寺御伝」によると1634年(寛永11年)7月24日に仁和寺第21世・覚深法親王(かくしんほっしんのう)が上洛していた江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に仁和寺再興を承諾され、慶長年間(1596年~1615年)の御所造替と重なったことから金堂となる紫宸殿(ししんでん)・御影堂となる清涼殿(せいりょうでん)などの建物を賜り、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
覚深法親王・覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)は安土桃山時代の1588年(天正16年)5月29日に第107代・後陽成天皇と典侍・中山親子(ちかこなかやま)の第1皇子・良仁親王(かたひとしんのう)として生まれました。1594年(文禄3年)6月に次期天皇即位を前提として親王宣下を受け、その後将来の東宮御所に正親町上皇(第106代・正親町天皇)の御所を与えられました。しかし1598年(慶長3年)に後ろ盾とも言われる関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡くなると第107代・後陽成天皇が良仁親王(覚深法親王)を皇位継承者から外す意向を示し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が良仁親王を廃し、第107代・後陽成天皇の正室・近衛前子(このえさきこ)が生んだ第3皇子・政仁親王(第108代・後水尾天皇)が次期天皇に即位することになりました。1601年(慶長6年)4月に仁和寺の院家・真光院に入って得度し、晋海から灌頂(かんじょう)を受けました。1614年(慶長19年)に一品に叙せられて法中第一座の宣下を受け、その後仁和寺門跡になりました。なお覚深法親王は1648年(慶安元年)3月15日に亡くなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
紫宸殿は内裏の正殿です。紫宸殿では天皇の即位・元服・立太子・節会などの公的な最重要儀式が行われました。紫宸殿には即位の際に天皇が着座する正式な御座所である高御座(たかみくら)・皇后の正式な御座所である御帳台(みちょうだい)が常設されています。
一般的に金堂は本尊仏を安置する本堂(仏堂)のことです。金堂は本堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
仁和寺見どころ

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