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仁和寺金剛華菩薩像・仁和寺見所(修学旅行・観光)
仁和寺金剛華菩薩像
●仁和寺金剛華菩薩像(花の仏さま)は御室流華道の流祖・宇多法皇(第59代・宇多天皇)1,050年御忌大法会の記念事業の一環として、大仏師・長田晴山(ながたせいざん)が制作し、1981年(昭和56年)に開眼供養されました。金剛華菩薩像は左手に宝相華(ほうそうげ )を盛った器を持ち、右手で支えた姿をしています。なお金剛華菩薩像は真言密教の金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)を元に造られました。
第59代・宇多天皇は平安時代前期の867年(貞観9年)6月10日に第58代・光孝天皇と皇太后・班子女王(はんしじょおう)の第7皇子・定省として生まれました。父・光孝天皇は不祥事によって退位させられた第57代・陽成天皇の大叔父にあたり、皇位が嫡流である第57代・陽成天皇の同母弟・貞保親王などに戻ることを考え、定省(第59代・宇多天皇)などの皇子・皇女は884年(元慶8年)に臣籍降下させられ、源定省(みなもとのさだみ)と称しました。ちなみに第57代・陽成天皇に王侍従として仕えていた際、第51代・平城天皇の孫・在原業平(ありわらの なりひら)と殿上の間で相撲をとり、椅子にぶつかって手すりが折れたという逸話が残っています。887年(仁和3年)に父・光孝天皇が重態になると関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の推挙により、同年8月25日に親王に復し、翌8月26日に立太子され、同日に父・光孝天皇が崩御すると第59代・宇多天皇に即位しました。即位直後に藤原基経が政務を拒んで自邸に引き籠る阿衡事件(あこうじけん)が起こったが、891年(寛平3年)に藤原基経が亡くなると親政を開始し、菅原道真(すがわらのみちざね)などを重用し、寛平の治(かんぴょうのち)と言われました。遣唐使(けんとうし)が停止され、日本三代実録・類聚国史(るいじゅこくし)が編纂され、官庁の統廃合なども行われました。897年(寛平9年)に31歳で皇太子・敦仁親王(第60代・醍醐天皇)に譲位しました。899年(昌泰2年)に出家して法皇になり、仁和寺に入り、高野山・比叡山・熊野三山などを参詣しました。901年(昌泰4年)に側近であった菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変(しょうたいのへん)が起こり、内裏に押し掛けて座り込んで抗議したが、聞き入れられず、第60代・醍醐天皇と対立しました。なお第59代・宇多天皇は平安時代中期の931年(承平元年)9月3日に崩御しました。
長田晴山は1920年(大正9年)に兵庫県姫路市にて生まれました。木彫は芸術院会員・佐藤玄々(さとうげんげん)、彫塑は京都芸術大学名誉教授・山本恪二(やまもとかくじ)に師事しました。1960年(昭和35年)に日本美術研究所を京都市に創設し、常盤工房を開設しました。1967年(昭和42年)に鳴滝工房を開設しました。1981年(昭和56年)に仁和寺・金剛華寺から大仏師の称号を授与されました。1986年(昭和61年)に山内工房を開設しました。長田晴山は智積院(京都市)の弘法大師像・興教大師像、福済寺(長崎市)の像高約18メートルの長崎観音、金剛華寺(京都市)の像高約6メートルの京都大仏などを制作しました。なお長田晴山は2010年(平成22年)に亡くなりました。
曼荼羅は仏・菩薩(ぼさつ)などを体系的に配列して図示し、仏の悟りの境地である宇宙の真理を表したものです。曼荼羅には胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)・金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら・大悲胎蔵曼荼羅)・両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などがあります。
【仁和寺 備考】
*参考・・・仁和寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●仁和寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
仁和寺歴史(宇多天皇・光孝天皇)
●仁和寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
仁和寺見どころ(金堂・五重塔など)