仁和寺九所明神・仁和寺見所(修学旅行・観光)

仁和寺九所明神

●仁和寺九所明神は1973年(昭和48年)6月2日に国の重要文化財に指定されました。
●仁和寺九所明神は江戸時代前期の1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)に建立されました。仁和寺九所明神は寛平法皇(第59代・宇多天皇)以来の歴代門跡の記録「御室相承記(おむろそうしょうき)・鎌倉時代初期成立」によると鎌倉時代前期の1212年(建暦2年)に境内南側から東側に移されました。仁和寺九所明神は本殿・左殿・右殿の3棟から構成され、本殿に八幡三神、左殿に賀茂上下(上賀茂神社・下鴨神社)・日吉・武答・稲荷、右殿に松尾・平野・小日吉・木野嶋を祀っています。八幡三神は第15代・応神天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと))を主神として、比売神(ひめがみ)・応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)を合わせた三神のことです。
第15代・応神天皇は第14代・仲哀天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)の第4皇子・誉田別尊(ほんだわけのみこと)として生まれました。200年(仲哀天皇9年)の三韓征伐(さんかんせいばつ)の帰途に神功皇后が生んだとされています。胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とされ、異母兄達(香坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ))が叛乱を起こしたが、神功皇后が鎮圧して排除しました。203年(神功皇后摂政3年)に立太子し、270年(応神天皇元年)に天皇に即位しました。在位中に大和朝廷の勢力が飛躍的に発展し、巨大な陵墓が天皇の権力の強大さを示していると言われています。また在位中に朝鮮半島から阿直岐(あちき)・弓月君(ゆづきのきみ)・王仁(わに)・阿知使主(あちのおみ)らが渡来し、養蚕・織物・灌漑・治水技術などをもたらしました。第15代・応神天皇は310年(応神天皇41年)に111歳で崩御したとも言われています。
比売神は道の女神です。比売神は特定の神の名前ではなく、神社に祀られている主祭神の妻や娘、または関係の深い女神とされています。
神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后です。神功皇后は第14代・仲哀天皇の死後、201年(神功元年)から269年(神功69年)まで摂政として、三韓征伐(さんかんせいばつ)などの政事を行い、100歳で亡くなったとも言われています。ちなみに神功皇后はお腹に月延石(鎮懐石)を当てて晒しを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、第15代・応神天皇を生んだとされています。なお第15代・応神天皇は胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも言われているそうです。
●仁和寺九所明神は本殿・左殿・右殿の3棟から構成されています。本殿は一間社流造のこけら葺です。左殿・右殿は四間社流見世棚造(みせだなづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
【仁和寺 備考】
*参考・・・仁和寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●仁和寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
仁和寺歴史(宇多天皇・光孝天皇)
●仁和寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
仁和寺見どころ(金堂・五重塔など)

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