仁和寺御影堂・仁和寺見どころ

仁和寺御影堂

●仁和寺御影堂は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財に指定されました。
●仁和寺御影堂は江戸時代前期の寛永年間(1624年~1645年)に1613年(慶長18年)造営の御所・清涼殿(せいりょうでん)の一部を賜って建立されました。「仁和寺御伝」によると1634年(寛永11年)7月24日に仁和寺第21世・覚深法親王(かくしんほっしんのう)が上洛していた江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に仁和寺再興を承諾され、慶長年間(1596年~1615年)の御所造替と重なったことから金堂となる紫宸殿(ししんでん)・御影堂となる清涼殿(せいりょうでん)などの建物を賜り、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
覚深法親王・覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)は安土桃山時代の1588年(天正16年)5月29日に第107代・後陽成天皇と典侍・中山親子(ちかこなかやま)の第1皇子・良仁親王(かたひとしんのう)として生まれました。1594年(文禄3年)6月に次期天皇即位を前提として親王宣下を受け、その後将来の東宮御所に正親町上皇(第106代・正親町天皇)の御所を与えられました。しかし1598年(慶長3年)に後ろ盾とも言われる関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡くなると第107代・後陽成天皇が良仁親王(覚深法親王)を皇位継承者から外す意向を示し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が良仁親王を廃し、第107代・後陽成天皇の正室・近衛前子(このえさきこ)が生んだ第3皇子・政仁親王(第108代・後水尾天皇)が次期天皇に即位することになりました。1601年(慶長6年)4月に仁和寺の院家・真光院に入って得度し、晋海から灌頂(かんじょう)を受けました。1614年(慶長19年)に一品に叙せられて法中第一座の宣下を受け、その後仁和寺門跡になりました。なお覚深法親王は1648年(慶安元年)3月15日に亡くなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
清涼殿は平安時代に天皇の居住の為の建物でした。ただ天正年間(1573年~1592年)に御常御殿(おつねごてん)が造営されてからは天皇の居住の場が移り、清涼殿は天皇の執務や儀式を行う建物になりました。
一般的に御影堂は寺院の開基(かいき)・開山(かいさん)や宗祖の像を安置した堂塔です。御影堂は奈良時代頃から開山の没後に敬慕の心を込めて建立されるようになりました。御影堂は祖師堂(そしどう)・開山堂などとも言われています。
●仁和寺御影堂は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖・弘法大師像、仁和寺開基・宇多法皇像、仁和寺第2世・性信親王(しょうしんしんのう)像を安置しています。仁和寺御影堂は約10メートル四方の小堂で、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂と言われています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
仁和寺見どころ

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