仁和寺遼廓亭・仁和寺見どころ

仁和寺遼廓亭

●仁和寺遼廓亭は1937年(昭和12年)7月29日に国の重要文化財に指定されました。
●仁和寺遼廓亭は江戸時代中期(1661年~1750年)に建てられ、仁和寺門前堅町から移されました。仁和寺遼廓亭は二畳半台目の茶室・四畳半の水屋と広間・控えの間・勝手の間で構成され、葺下し屋根の下に躙口(にじりぐち)がある袖壁(そでかべ)が付けられています。仁和寺遼廓亭は全体の意匠が織田信長の弟・織田有楽斎(おだうらくさい)好みの「如庵(じょあん)」に似ています。
織田有楽斎(織田長益(おだながます))は戦国時代(室町時代後期)の1547年(天文16年)に織田信秀(おだのぶひで)の11男として生まれました。兄・織田信長とは13歳離れています。1574年(天正2年)に尾張国知多郡を与えられ、大草城(おおくさじょう)を改修しました。その後兄・織田信長の長男・織田信忠(おだのぶただ)の旗下にあったとも言われています。1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、御伽衆(おとぎしゅう)になりました。また千利休(せんのりきゅう)に茶道を学び、高弟になって利休十哲(りきゅうじってつ)に数えられました。1590年(天正18年)に剃髪して有楽と号し、1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉が前田利家(まえだとしいえ)邸を訪ねた際に室礼などを指導しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)方に属し、大和国の3万2千石を与えられました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で豊臣方の盟主に推されたが、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣に参加せず、京都に隠棲して茶の湯に専念しました。なお織田有楽斎は1622年(元和7年)1月24日に亡くなりました。
「如庵」は江戸時代前期の1618年(元和4年)に織田信長の弟・織田有楽斎(有楽斎如庵(うらくさいじょあん))が建仁寺(けんにんじ)の塔頭・正伝院(しょうでんいん)に建てました。明治維新後に祇園町の有志に払い下げられ、1908年(明治41年)に東京・三井本邸に移されました。その後1936年(昭和11年)に重要文化財(旧国宝)に指定され、1938年(昭和13年)に三井高棟(みついたかみね)が神奈川県大磯の別荘に移し、1951年(昭和26年)に国宝に指定され、1972年(昭和47年)に名古屋鉄道が愛知県犬山市の有楽苑(うらくえん)に移しました。なお「如庵」は二畳半台目の向切りの茶室で、入母屋造のこけら葺です。
●仁和寺遼廓亭は北面が寄棟造(よせむねづくり)・南面が入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
仁和寺見どころ

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