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仁和寺庭園・仁和寺見所(修学旅行・観光)
仁和寺庭園
●仁和寺庭園は1996年(平成8年)4月1日に京都市の名勝に指定されました。
●仁和寺庭園(北庭・南庭)は境内南西に建立されている御殿(宸殿・飛濤亭・遼廓亭など)にある面積約4,106.5平方メートルの庭園です。仁和寺には平安時代末期に作庭された法金剛院(ほうこんごういん)青女の滝(せいじょのたき)の滝石組を組み直した徳大寺静意(じょうい)などの石立僧(いしだてそう)がいたことから平安時代後期に庭園が作庭されていたとも言われています。しかし室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で仁和寺全山が灰燼に帰したことから庭園も焼失したとも言われています。江戸時代前期の寛永年間(1624年~1645年)に伽藍が再建されて庭園も作庭され、江戸時代中期に遼廓亭・江戸時代後期に飛濤亭が建てられるとその周囲に露地庭も作庭されました。その後1887年(明治20年)に宸殿などが焼失し、1914年(大正3年)に宸殿が再建されると7代目小川治兵衛が庭園を改修しました。宸殿の池泉式庭園(北庭)は宸殿に面して中央付近で大きくくびれ、池に滝石組が設けられ、石橋が架けられています。
7代目小川治兵衛は幕末(江戸時代末期)の1860年(万延元年)5月25日に山城国乙訓郡神足村(京都府長岡京市)に生まれました。1877年(明治10年)に江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1764年)から続く植木屋治兵衛・小川植治(おがわうえじ)の養子になり、1879年(明治12年)に七代目小川治兵衛を襲名しました。明治時代初期に京都東山・南禅寺(なんぜんじ)界隈の別荘地で、東山を借景に琵琶湖疏水(びわこそすい)を利用した近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を作庭しました。なお7代目小川治兵衛はいずれも国の名勝に指定されている平安神宮(へいあんじんぐう)・円山公園(まるやまこうえん)・山縣有朋(やまがたありとも)別邸の無鄰庵(むりんあん)・西園寺公望(さいおんじきんもち)別邸の清風荘(せいふうそう)・市田弥一郎(いちだやいちろう)邸の対龍山荘(たいりゅうさんそう)・慶雲館(けいうんかん)庭園・旧古河(きゅうこが)庭園などを作庭しました。また京都御苑(きょうとぎょえん)・京都御所(きょうとごしょ)・修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)・桂離宮(かつらりきゅう)・二条城(にじょうじょう)・清水寺(きよみずでら)・南禅寺・妙心寺(みょうしんじ)・法然院(ほうねんいん)・青蓮院(しょうれんいん)・仁和寺(にんなじ)などの庭園などを作庭・修景もしました。
宸殿は1914年(大正3年)に再建されました。宸殿はかつて江戸時代前期の寛永年間(1624年~1645年)に御所・御常御殿(おつねごてん)を賜って建てられたが、1887年(明治20年)に焼失しました。宸殿は3室からなり、日本画家・原在泉(はらざいせん)が描いた襖絵などが飾られています。なお宸殿は桁行約19.7メートル・梁間約11.8メートルで、入母屋造の檜皮葺です。
遼廓亭は江戸時代前期から中期の1661年(万治4年・寛文元年)~1750年(寛延3年)に建てられ、江戸時代の画家・尾形光琳(おがたこうりん)の屋敷から移築されました。遼廓亭は二畳半台目の茶室・四畳半の水屋と広間・控えの間・勝手の間から構成されています。なお遼廓亭は南面入母屋造・北面寄棟造のこけら葺です。
飛濤亭は仁和寺第28世・深仁法親王(かくしんほうしんのう)の異母弟である第119代・光格天皇(こうかくてんのう)遺愛の茶室と言われています。飛濤亭は四畳半に台目がついた茶室・水屋の間・勝手の間から構成されています。なお飛濤亭は入母屋造の茅葺です。
【仁和寺 備考】
*参考・・・仁和寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●仁和寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
仁和寺歴史(宇多天皇・光孝天皇)
●仁和寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
仁和寺見どころ(金堂・五重塔など)